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地を這うけものに戻れない

全自動洗濯機が「洗濯終わりました」とピーピー鳴ったので、俺はTSUTAYAで借りてきた『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のDVDを、ビョークが工場で踊っているところで一時停止して、洗面所へ歩いて行った。洗濯機の蓋を開けて、絡まり合った洗濯物を引っ張り出して、しわを伸ばしてハンガーにかける。ハンガーにかける、というのは、ハンガーに洗濯物をセットすることを言うのか、洗濯物のセットされたハンガーを物干し竿にかけることを言うのか、その二工程を指す言葉なのか、分からない。男の一人暮らしだが、室内干しである。ピーカンに晴れた土曜の昼下がりであるが、外には干さない。女子大生か。

引っ張り出した洗濯物の中の一つに穴が開いていた。ラッドミュージシャンのTシャツで、気に入っていたのに、残念だ。ストラトキャスターのプリントが少々くたびれて、首回りも伸びていたので、部屋着に降格させようかどうしようか、と思っていた矢先である。もうこれは着られない。いや、本当は着る分には全く問題ない。むしろ肌に馴染んで、馴染みまくってくたくたして、こちらの方が新品よりも着心地が良いくらいだ。しかし、これはもう捨てる。破れていては部屋で着るのもちょっと……と思ってしまうものだ。着心地よりも、生活におけるセンスの問題だ。まあ、もったいないことには変わりないので、切ってウエスにする。

穴の開いたシャツを着て外を歩いてはいけない、という決まりがある。決まりはないが、そんな格好で外を歩くのはいけない、ということになっている。ついでに言うと、風呂には毎日入って、髪はシャンプーをしてリンスもして、顔と体は石鹸で丁寧に洗って、髭も剃って歯磨きもして、それから他人に不快感を与えない清潔感のある服装と髪型でなければ、外に出てはいけない日本である。ひどいものだ、こんなに行動を制限されるとは。

俺は部屋着のしまむらTシャツを脱いで、ラッドミュージシャンを着た。最後に着倒してやるのだ。湿ってびたびたして、薄いので素肌に貼りつくが、一、二時間も外を歩けば乾いてしまうだろう。外気は三十五度である。湿ったTシャツの水分が気化するときの、むわっとした感じが気持ち悪いような、むしろ心地がいいような。お気に入りのTシャツの弔いである。

俺はアパートを出て、公園に向かって歩いた。水が滴るほどには濡れていないので、通行人は俺がびしょびしょの穴開きTシャツを着ていることには気付かない。大体、誰もそれほど他人をじろじろ見たりはしない。濡れているのに気付いたとしても、この晴れた日に濡れたTシャツを着て歩いている男は普通ではないから、積極的に関わり合いになろうとはしないだろう。「あらあ、どうしたの。服が濡れてるじゃないの、これで拭きなさいよ」などと無理やりハンドタオルを渡してくるような見知らぬおばあちゃんもいない。淋しいな、と思うがそういうものだ。

俺と同じように、びしょびしょのシャツを着た男とすれ違った。彼はこのくそ暑い中、長袖のワイシャツを着て、ネクタイを締めて、ジャケットを左腕に掛け、鞄を提げている。俺は洗濯したてのシャツだが、彼は汗でびしょびしょである。通り過ぎた後で振り返ってみると、背中の汗染みがすさまじい。背中から翼が生えたみたいだ、と思って見ていると、その男はハンカチで額の汗を拭いながら、なんとそのまま助走を付けて大空へ羽ばたいていった。男はぐんぐん上昇していく。働く男って空を飛べるんだ、と視界の中で豆のように小さくなった彼を見上げながら思う。

俺は高校生の頃にハンバーガーのパティを焼いたり揚げたポテトに塩を振ったりするアルバイトをしていた。その面接へは当時、学校の制服で行ったのだが、働き出してからふと気になりだしたことがあった。制服のない学校の生徒、または社会人はどういう格好で面接に来るのか、ということだ。俺が入ってしばらくすると夏休みがやって来て、それに合わせて大学生が一人クルーに加わった。山本さん、という人だ。休憩時間に俺は山本さんに聞いてみた。

「山本さんって、ここの面接に来るときどんな格好で来られました?」

「えっ? えーと……、普通の格好だけど……」

「普通っていうと、どんなのですか?」

「シャツとチノパン……、え、もしかして変だった?」

山本さんは俺たち高校生に対してすごく腰の低い人で、その他の人に対してはもっと腰の低い人で、なんとなくいつもオドオドしている。

「山本さん、今日はジーンズだったじゃないですか。面接はチノパンにしたんですか?」

「うん、俺、バイトって初めてだから勝手が分かんなくてさ、友だちに聞いて、これくらいの服装かなと思って」

山本さんは膝を手のひらで擦りながら答えた。膝をごしごしやるのが癖らしかった。

チノパンはジーンズに比べてフォーマルな感じがする。きっちりプレスしてあれば、トラディショナルであるとさえ言える。トラッドにチノパン、トラッドニチノパン……メンズジョーカーが呪いのように何度も書いていた。

世の中には、普通、というドレスコードが存在する。そのシーンで求められている機能を持った服装、且つ、嫌味にならず、みすぼらしくも見えない格好ということだ。そのシーンで求められている機能、というのはいい。水に入るときは水着があるし、工場で工業製品を作るときには作業服があるし、パーティに行くときには人目を引く派手なドレスや、ぴかぴかの靴がある。問題なのは、それがどんなふうに見られるかということを、必要以上に誰もが気にしているということだ。どんな綺麗なドレスでも、穴が開いていてはドレスコードを守れていないということになる。「あの人のドレス、穴が開いてるわよ」と後ろ指を指されるのだ。穴の開いたドレスを人前で平気で着る、だらしのない奴ということなのだろう。また、更に難しいのは、周囲から浮かない、ということだ。一人だけそれなりの値段がするいいものを着ていると、これまた「あの人、あんな高そうな服着て」と後ろ指を指されてしまうし、周りがそれなりのいいものを着ている中で、安っぽい格好をしていると、貧乏人ということになる。これはもう周囲と何を着ていくかのコミュニケーションを取らなければ、やっていけない。普通の基準が流動的過ぎるのだ。

人は最初に会ったとき、身なりでその人を判断する。だから、ドレスコードを守れないというのは、その後の人間関係においての大きなネックになる。

このせいで友だちができない、というのはまだいい。同程度の金銭感覚やセンスを持った人の方が、そうでない人よりも仲良くなりやすいかもしれないのだから。まずいのは、お金を稼ぐために働かなくてはいけないのに、一定以上お金がないと働くための身なりが整えられないから、土俵にも上がらせてもらえない、ということだと思う。小ぎれいな身なりをして、いかにも周囲と調和して社会生活を営んでいるふうを装わなければ、お金を稼ぐサイクルから外されてしまう。一億総中流の弊害である。

公園に着いてみると、小学生がわんさかいる。学童は夏休みで、この暑さの中、若さを持て余すようにはしゃぎまくっている。俺は暑さに体力を奪われるばかりだ。

こういう大きな公園の一角では段ボールが身を寄せ合っている。公園は公園でも、小さな児童公園にはいない。大きな公園の、あまり人が寄り付かないような適度に緑の茂った所に居を構えるのだ。

俺はジーンズのポケットからボッテガヴェネタの小銭入れを出して、自販機に百円玉と五十円玉を入れて、三ツ矢サイダーを買い、石のベンチに腰掛けた。遠巻きに段ボール群を眺めていると、その一棟から男が体を屈めて出てくるのが見えた。男の髪はぼさぼさで白髪混じり。その髪は皮脂でこってりして、鈍く光っている。服は汚れているものの、意外と破れたりなどはしていない。長袖のシャツの袖を折り上げて着ている。見た感じ四十歳は超えているだろうが、いまいち年齢は不詳。彼は公園の敷地をショートカットで横断せずに、外周をもくもくと歩いている。

どうやってご飯を食べているのかな、と俺は考える。雑誌を売ったり、空き缶を集めたりして小銭を稼いでいるらしい、というのを聞いたことがあるが、真相は分からない。さすがに段ボールのところまで行って直接聞くという度胸もないので、俺は悶々とする。

しかし雑誌を売るのにしろ、空き缶を集めるにしろ、日雇労働に出るにしろ、彼らはお金を稼ぐということに真摯であると俺は思う。少なくとも俺よりはずっと、労働とは何であるかについて、真理に近いところにいるのではなかろうか。

労働が、自己実現や、充実した人間関係の獲得や、自己顕示欲や承認欲求を満たすことの手段である、というのは間違いではないけれど、それで頭をいっぱいにすることは同時に、ごはんを食べていくためにお金を稼ぐ、という基本的なことを少しずつ頭の外側へ押し出そうとしているように思えてならない。

俺は大学生の頃に若気の至りで一人で旅行したインドのことを思い出した。デリーにはビジネスマン風の人もいるにはいたが少数で、多くの働く人たちの格好は、おしゃれではない着古したようなシャツと綿パンツ。髭がもじゃもじゃの爺さんは半裸。町のそこらじゅうに牛がいて、舗装されていない道には牛の糞が落ちている。オンボロのバンや、手作り感あふれる人力車が通りを行く。日本に比べると、市井の人たちの暮らしは貧しく、見た目にはあまり構っていられないふうに見えた。仕事をしている人たちは何かを運んだり、自分の店で何かを作ったり、売ったりしている。特に楽しそうには見えないし、どちらかというと、しんどいだろう。けれども俺の目には彼らが幸せそうに映った。というのも、その頃俺は大学二年生で、翌年には就職活動というものが控えており、労働の付加価値について頭を悩ませていたところだったからだ。

自己実現、充実した人間関係の獲得、自己顕示欲や承認欲求を満たせなければ、その仕事はただお金を稼ぐだけで、人間的成長には繋がらない、人間的に成長できない仕事には価値がない。日本に暮らす俺は、そういうような雰囲気を肌にバチバチと感じながら大人になってしまったので、仕事選びが辛くて仕方がなかった。今では、仕事は「生きがい」なんかじゃなく、単純に「食い扶持」だと言えるのだけれども。

労働とは、原始的。本来はなりふり構っていられない。石器時代の人間はスタイリッシュにかっこよく狩りをするなんてこと、考えもしなかったろう。労働とは地べたに這いつくばることだ。Tシャツに穴が開こうが、生きていかなければならない。しかし、穴の開いたTシャツでは仕事ができない日本だ。みんな、お金を稼ぎながらも地べたから浮かびあがろうと必死になっている。みんなお金が欲しいのに、地べたに這いつくばってお金を稼ぐ人たちを笑う。みんなお金が欲しいのに、地を這うことから目を逸らしたいから、形而上の問題、生きるとは何か、そんなことを必死になって考えている。どんなに国が豊かになっても、地を這わなければ生きていけない人がいるのに。

俺のTシャツは乾き始めていた。はっとして、アパートのクーラーはおそらくつけっ放し、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のDVDは一時停止のまま、ということに気付く。しかし、電気代もったいねえな、と思うだけで、きっと走って帰ったりはしない。友人から散々聞かされた映画のエンディングについて思いを巡らせながら、俺は腰を上げた。服を着たまま、噴水の水を全身に浴びる子供たちが見える。あの子たちはまだ、あの格好で堂々と家に帰る道を歩くことができるのだろうけれど。

Aug7, 2012

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