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パンになった女の話

ある朝、明日麻がどこか妙な夢から目をさますと、自分が寝床の中でひとつの小さなパンに変わっているのを発見した。

いや、発見したというのもいまいち道理が通らない。しかし発見したのだ。

布団の中で手や足を動かそうとすると、何故か体全体が揺さぶられる。また視界がぶれるのだ。これはおかしいと、明日麻が首を振ろうとするとこれでもまた体全体がぐらりと動いた。

部屋の角に姿見があったはずだ、それで今の自分の状態を確認しなくては、と明日麻は体を何とか動かし布団から這い出ることにした。

這い出る間にも、掛け布団と自分との間でザリザリと砂がこぼれる様な音がした。明らかに不穏であったが、それを確認するのは後回しにせねばならない。

何故なら体を幾ら捩ってみても自分の姿が視界に入らないのだ。ダブルベッドの上に足を伸ばして眠っていたはずの自分の体が何処かへ行ってしまったらしく、何も見当たらない。くしゃくしゃになったシーツがそこにはあるだけだった。

明日麻は部屋の中を進んでいくが、この部屋はこんなに広かったかしらんと転がりながら考えていた。

いつもなら女の足で三歩ほど進めば鏡の前まで辿り着けるはずだ。しかし、どういうわけか歩けない。歩けないので体を転がして前に進んでも、まだ半分ほどしか近づけていない。

忌々しく思いながらごろごろと部屋を横断する。カーペットを擦る体は、さっきのようにまた砂のこぼれるような音を出していた。明日麻は気味の悪さに身震いした。

何回転したか分からないが、散々転がってきたせいで目が回ってしまい、鏡の前に到着した明日麻はなかなか視点が定まらない。

それでも鏡の中の自分が徐々に像を結んでいくのを不安な気持ちで眺めていた明日麻は、はっきりとそれを確認すると、思わずひっくり返りそうになった。

鏡の中には、いつも見ている部屋の反転している景色と、その中にちっぽけな一つのメロンパンが転がっていた。

夢ではなかろうかと落ち着いて、頬っぺたを抓るように手を上げようとしても手であった部分は手ではない。やはりバランスを崩してごろんと転がるだけである。鏡像も同じくして転がったパンを示しているだけだった。

明日麻はだんだんと血流が早まっていくように感じた。伴ってドクドクと心臓の鳴る音が聞こえるように思えた。

しかしながら、目の前のメロンパンに果たして心臓があって、血が流れているのかどうかは定かではなかった。

手も足も生えておらず、確かに音は聞こえていて鏡に映る姿も見えているのだが、顔というものすらない。一体どこから音を感知し、酸素を供給し、光を取り入れているのかも全くもって明日麻には分からなかった。

しかし、このパンが自分であるということだけは、意思に応じて動く姿を見ていると理解できるのだ。また先ほどの砂のこぼれるような音は、転がってきた際にメロンパンの上に掛かっているザラメが剥がれてしまったことによるものと予想がついた。

あまりにも非日常で非現実な事態に晒されている明日麻であったが、とにかくこれまでのように自由に動けない身になってしまっては仕方がない。

非現実の上に降ってきた現実はまた、あまりにも皮肉である。今日のアルバイトのシフトは誰に代わってもらえばいいのか、そもそもどうやってそれを勤務先に連絡すればいいのか、そんなことを何処にあるのか分からない頭で明日麻は考えていた。

そして考えて考えて、それでもなお考えるが答えは導き出せそうになかった。

どうやら明日麻は人間から何か別のものに変わってしまったらしい。それは幸か不幸か、毒虫や虎ではない。ひとつのメロンパンである。それは生物ではない。

それを思うと明日麻は自分が今、生きているのか死んでいるのか、分からなくなった。

毒虫や虎であるならまだ、見た目の気味悪さはあれども自分が別の生物になってしまったということで、一つの考えの着地点は見出せる。しかし、悲しいかな明日麻はメロンパンなのである。

通常の生物に備えられている、生きるために必要な体の器官も見当たらない。ただ感覚はあって、室内の温度は高く、じめじめとしているのはメロンパンにも分かった。

まるで自分は、一瞬のうちに四肢をもがれてしまった兵士かと、明日麻は感じるのだ。

なくともあると感じられる手足は、動かそうとすると無常にも転がってしまう。それでもまだ自分は自分であるということだけは明らかだった。それを自らに殊更に示すためにも明日麻は部屋の中を無駄にごろごろと動き回っている。それによって脆く削れていく体は痛みを感じない。触覚はあるが痛覚はないらしい。

例えばどんどん自分の体が削れていって、そのうちおがくずのようになってしまった場合自我はどうなってしまうのだろうかと、明日麻は踊りながら考えていた。

目覚めてから数時間が経過していた。この数時間というのは、時計で知るところの数時間である。

明日麻が時計を見ると午前9時を示していたが、実際明日麻の感じている時間感覚ではもっと長い。何故かと思いを巡らせて、行き着く考えはハツカネズミである。

昔学生であった頃に、生物の教員であったか、それとも何かの本で読んだのか覚えていないが、ハツカネズミの生きる一年半と人間の生きる80年は、感覚でほぼ同じだと聞いた。

心臓が打つ早さと反比例して、寿命は短く、時間間隔は長いのだ。

ここでもまた明日麻は自分に心臓はあるのかという考えに行き着いたが、既にそんなことはどうでもいいとそれを打ち捨て、翻って、では自分はこれからどのくらいの間この姿で生きるのかと全く行き先の見えない未来に思いを馳せた。

10時になると男が帰ってきた。今日は夜勤明けで、玄関からベッドへ移動する間に一つずつ上着、ネクタイ、ベルト、スラックス、ワイシャツと脱ぎ散らかしていき、肌着とトランクス姿になったところでベッドに飛び込む。

いつものことで、それをたしなめるのも明日麻の役目であったが、生憎言葉を発することは出来ない。

男に踏まれなかっただけまだ幸いであったが、同じ部屋で生活する人間であるからこれは早目に気付いてもらわなければならない。明日麻は今まで以上に大きく体を揺すって男の視界で暴れた。

やっとのことで男がメロンパンに目をやった。見るやいなやぎょっとした表情を向けて後ずさる男であったが、男は自分がひどく疲れているのではないかと思ったのか、再び眠そうな顔をして枕に顔を伏せた。

やあこれはまた面倒だなと明日麻は思ったが、それでも何とか先ほどと同じように転がってベッドの方へ進み、自力では登ることができないのでベッドの脚へ体をぶつけて、その振動で男を起こそうと試みた。

何度も繰り返すことで体は更に削れていくが、男が自然と目を覚ますまで待つことに比べればそちらの方がいくらかましだった。

数時間がまるで数日のように感じられる明日麻は、自分の感覚では何日も同居人の目覚めを待っていることは出来ないのだ。

そして男は目を開いた。ヌッと顔をベッドからはみ出させて明日麻を見る。明日麻は力を振り絞ってぴょんぴょんと跳ねてそこらを舞った。

男は眉間に皺を寄せながら立ち上がって、ふらふらとオーディオデッキの方へ歩いていった。明日麻は自分が無視されているように感じて非常に不愉快であったが、踊るメロンパンを見ても叫び声一つ上げない男に対し、その肝の据わりように多少の尊敬と、流石自分の選んだ男だと妙な自賛を覚えるのだった。

男がCDの棚から一つ取り出す。棚にはAsuma‘sと記されている。この部屋にはCDとLPだけは山のようにあった。もともと音楽の趣味で行動を共にするようになり、そのうち一緒に暮らし始めるようになった男だ。明日麻も男も所有する音源の数は尋常ではない。

時に、無造作に取り出したCDがどちらの物か分からなくなるため、棚にはそれぞれの名前を書いて管理をしていた。

デッキにCDが飲み込まれる。何が流れてくるのだろうと待っていると、イントロはどうやらアシッドジャズの類である。

いや、これはジャミロクワイだろうか。もう10年ほど前に流行った曲であるが、学生時分の明日麻が夢中で踊った曲だった。

メロンパンの姿になっても、そのリズムに合わせて体を揺らしたり、転げまわってみせた。時間の経過と共に、明日麻はだんだんと動き方をつかんできている。

男は理解した。ああ、このパンは明日麻であると。ジャミロクワイの曲に合わせてくるくると回り、ぴょんぴょんと跳ね、ごろごろと転げまわる様は明日麻がこのパンに変身してしまったことを表していた。

明日麻には音楽は間違いなく昔に聴いたのと同じものとして聴こえていたが、妙に曲が長く感じられるのは、やはりパンになってしまったせいなのだ。

メロンパンにとっての5分は長かった。踊り続ける明日麻であったが、曲の終盤に差し掛かるといくら体が軽いといっても、くたびれてしまう。

鏡に映る、踊るメロンパンは愉快であるが、明日麻は一体自分が何故こんな妙な状況に晒されているのかと悔しくもあった。それを“ジャミロクワイに合わせて踊るメロンパン”ということで、無理やり気持ちの落としどころを探っているのだ。

男はメロンパンを拾い上げた。拾い上げて匂いを嗅いだ。上に載っているビスケット生地は所々ぽろぽろと剥がれていたが、あれほど激しく部屋の中を暴れていた割には、まだ十分にメロンパンの体を残している。また、バニラのような甘い匂いもした。

明日麻は男の手にくすぐったさを感じて体を少し捩ってみるが余計に強くつかまれてしまう。自分の体がぐにゃりと凹んでいる様を感じると、可笑しくて仕方がなかった。

人の手に触れられると、よりいっそう自分がメロンパンなのだと自覚してしまう。しかし、それが信頼を寄せている男の手であるということが、逆にまだ自分が完全にパンという無機物になってしまったわけではないとも思わせた。

「アスマ、お前メロンパンになったのか」

率直過ぎる男の問いかけに明日麻は笑うしかないが、声を上げて笑うことはできず、ふるふると体を震わせてそれを示した。

「また、やっかいなことになったなあ」

全く予想だにしない事実に直面すると、人間は案外にも冷静である。メロンパンと会話をする男も、一般的に見てみれば明日麻と同じように非日常で非現実であった。

「生きているメロンパンってのもなあ。ほら、お前何か食べたりするのか?」

生きているのは事実だろうかと明日麻は思った。男に生きていると言われると、ああ、生きているのか、良かったと少し落ち着いた気持ちになるのだ。

しかしメロンパンには口がない。食物を摂取するにはどうしたらいいのかも明日麻には分からなかったし、そもそも摂取しなければいけないのかも明らかでなかった。

男は笑った。明日麻も体を震わせた。笑っている場合ではないが、笑うしかなかった。

明日麻こそが食べ物なのである。毒虫が昆虫、虎が獣というカテゴリであるのと同様、明日麻はメロンパンという食物になってしまっているのだ。

さて、食べ物というのは常温に放置すると腐る。あくまで生物ではなく、ただの食物である明日麻も例外ではないのかもしれない。明日麻が今、生きているか死んでいるかという問題にも明確に答えが出たわけではない。

明日麻は思い浮かべた。このまま腐敗してしまった場合のこと、それからじくじくと虫に食われていく様を。自分の体に虫の集る様子を想像すると、自分が毒虫であると想像するよりも更に気持ちが悪かった。

子供の頃、学校給食のパンを机の中に放置していた同級生が、青ざめた顔をしてそれを取り出していたのが思い出される。あれは確か、既にパンの体を成していなかった。

男がザラメの残っている頭頂部(それが頭かどうかはさておき)を撫でる。先ほどとは一転して今にも泣き出しそうな表情を浮かべていた。

明日麻はそれを見るなり、気が付いてしまった。虎は人を襲うものであり、毒虫は人間から疎まれ人知れず死んでいくものであり、またメロンパンは人に食われるということだ。また目の前にある人間というのは他の誰でもない、自分の愛する男である。

明日麻は間近にある男の唇に、強く体を押し付けた。しかし唇をこじ開けようと体を割り込ませると、男の手によって振りほどかれる。

「おい、何やってんだ。俺にお前を食えっていうのか」

男は叫んだが、明日麻は何故かそれが楽しかった。男の口の中で噛み砕かれる自身を想像して、その快感を思った。

痛覚がない分、そこには悦楽しかないように明日麻には思えるのだ。何故か恐怖というものは少しもなく、自我が崩壊し自分の体が男の一部となるということにこそ、快を見出せる気がしていた。

それは食われるものの悦びである。愛する者の血や肉に自分が息づくというのは、何にも隔てられずに同化できるということなのだ。

これまで男と明日麻は何度となく体を重ねたが、それは直接的な生殖行動を伴ってはいなかったし、肉で隔てられる感覚は所詮人間同士では越えることは出来ない。しかし、今メロンパンに変身してしまった自分はどうだろうか。激しい行為なしに、すんなりと男の中へ入って行ける。明日麻はまた、それを思って震えるのだ。

男が観念するまで、明日麻は男の口元へ全力で飛びつくのをやめない。男に引き剥がされても、それによって体が削れようが知ったことではない。

随分とビスケット生地が剥がれてしまって、カーペットの上には自分の破片がばらばらと散らばっていたが、その破片には全く感覚がないことから、やがて男の一部となってしまう自分は噛み砕かれるいずれかの時点で、自我を失ってしまうことが予想された。

それからしばらく同じことを繰り返していたが、やがて男はメロンパンに抵抗することをやめた。

明日麻はぴょこんと跳ねて体を震わせながら、じっとしている男の顔へ寄り添う。

男の表情が何を示しているのか、明日麻にはよく分からなかった。こんな複雑な顔をする男だったろうかと記憶を手繰るが、明日麻との記憶にどこにもそんな顔はなかった。

「分かったよ」

男はメロンパンを手に取り、じっくりとその外見を眺めた。散々床を転がって、ボロボロで、少々汚れてしまってもいる。

これが何の変哲もないメロンパンであるなら、こんなものは口にしないが、明日麻が痛々しくも男に対して主張を続けた結果がこれなのだと思うと、男はもう明日麻のしたいようにさせたかった。

「俺はお前を食うよ」

メロンパンになってしまった明日麻にこれほどの悦びはないのだ。いや、メロンパンになる前から明日麻は男の一部となることを望んでいたのかもしれない。

男の鼻息が感じられてこそばゆいが、それには我慢して明日麻は男の口の中へと運ばれる。噛み切られて残った方の体にまだ自我があるらしい。体が一瞬にして小さくなったのが思いの外楽しくて、明日麻は早く粉々にしてくれと願った。

一口、もう一口と徐々に砕かれていく明日麻は遠い日の記憶を手繰っている。小学校から歩いて帰る途中にドブ川へ落ちた日のことや、勢いで会社を辞めてしまって世話になっていた同僚に見送られながらも内心詫びる気持ちを表に出せなかった日のことや、それからすぐ隣に見えるキッチンで男が自分のお気に入りの茶碗を割ってしまった日のことや、男が明日麻の作った夕食を食べながら、テレビを見つつ結婚がしたいと誰に言うともなく言った日のことを思い出していた。

明日麻は最後の自分の破片が温かい雫に濡れているのを感じつつ、思い出していたのである。

Aug17, 2009(Aug14,2012「變身」から改題)

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