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十五歳

-後編-

〔三〕

次の日、魚住さんは登校してきたが、どうも様子がおかしい。観察していると、ヤスとの間に何かあったらしい、ということは分かるのだが、本人に尋ねるのは無粋と思われたので、黙っていることにした。恋愛絡みのいろいろか知らん、と俺は昼休憩にパンをかじりながら、ヤスと魚住さんを何度か交互に見た。

魚住さんは、いくら須藤と仲が良いとはいえ基本的には女子同士で仲良くする人なので、いつも須藤と一緒に居るわけではない。かといって須藤が魚住さんのいる女子のグループに混ざることもないので、須藤は男子と一緒でない場合、一人で行動する。

須藤を見ていると、なんて社会性のない奴だ、といらいらしてくる。女子が嫌だ、仲良くできない、そんなふうに思っているくせに、須藤自身も十分女子特有のめんどくさい性格を持っているし、しかも、それで一人でいようとするから、仕方なく周囲がフォローしなければならない辺り、余計にめんどくさい。須藤本人が一人でいいと言っても、周りがそれを許さない状況だってあるのだ。一人で飯を食っている奴がいたら、誰かが声を掛けないとまずいような、それでハラハラしてしまう俺みたいな奴だっているのだ。そういう、集団の空気みたいなものを須藤は読み取ろうとしない。

もう須藤のことを昔ほど好きじゃないのだろうか、と自分の気持ちを量る。しかし不思議なもので、その形だけにはどうしても引っぱられてしまう。後ろの席から、須藤の動きを眺めていると、しばらく抜いていないのが原因なのか、なんだか性的にたまらない感じになった。

呆けていると、友人から不意に小突かれた。

「お前、須藤とまたケンカした?」

「いや、ケンカはしてないよ」

首を振ると、

「ふうん。あいつ、高校は一大付属らしいじゃん、遠いだろ。榊どうすんの?」

友人はずけずけと聞いてくるので、

「どうしようもないよ」

要領を得ない答え方をした。遠距離でも付き合いを続けるの? という質問であったのだろうが、今の俺には答えようもない。

顔の造作がすごく好きだとか、体が気持ちいいというような五感が覚えたものって、なんてしつこく胸を喘がせるんだろう。あの顔や体の感じは、いつまでも五感の中にべったりとくっついて離れないのではないか。俺の中で須藤の人格に対する評価がどんなに変わってしまっても、入れ物にはずっと惹かれたままかもしれない。それは「性格が好き」とかいう優等生的な台詞よりもずっと単純で、且つ確かさを持っていると思うのだ。

卒業式まであと二週間、という頃に、また久我山さんと話す機会があった。放課後、楽器と譜面台を持って練習場所を探しているふうだった久我山さんは、下駄箱の前で上靴を脱いでいる俺と目が合うと、にっこりと笑って軽く頭を下げた。俺も笑って、屈んだ体勢のまま手を上げた。

「今から練習?」

スニーカーの踵を履きつぶしたまま、久我山さんの側まで歩いて行く。

「はい」

「調子はどうですか」

俺がそんな社交の中身のない質問をすると、

「この間、顧問の先生に『遅れて入部したわりには、いいんじゃない』って言ってもらえたんです」

小さいけれど高くてはっきりとした声で答える。

「久我山さん手先が器用だから。それに、覚えるのも早いよね」

「いえ、そんなことないです」

久我山さんは首を振って謙虚した。

「久我山さんは一回聞いたら、やり方を完璧に覚えるでしょ。絶対、二回も聞かないじゃない。すげえなって思ってたんだ。俺なんかは先輩に何度も同じこと聞いて、よく呆れられたもんだよ」

「わたし、何度も同じことを尋ねたら、めんどくさい奴って思われるんじゃないかって……」

「それで聞かなかったの?」

尋ねると、久我山さんは頷く。

「でも俺が見る限り、ちゃんとできてたよ?」

「それは、できるだけ自分で調べたり、それでも分からなかったら、他の先輩に聞いたりしてて」

「気にしなくてよかったのに」

放送部だった頃、とても注意深く俺の話を聞いていた久我山さんの表情を思い出した。こういうことをすると嫌われるんじゃないか、と常にびくびくしながら人と付き合うのは、疲れることだろう。

「でもまあ、良かったよ。楽器の方が向いてたんだ。きっと」

俺がそう言うと、久我山さんはちょっと俯いて唇を結ぶ仕草をしたので、照れているのかな? と想像できる。しかしまた、か細くて聞き取りにくい声に戻って、こんなことを言うのだ。

「部長には、わたしが急に逃げてもこうやって気を遣って話しかけてもらって、なんだか申し訳ないです」

俺は胸がシクシクしだした。

「俺は久我山さんに話しかけてあげてるなんて、思ったことないよ。また話したいなって思ったから、話しかけたんだよ」

「また、わたし、部長に迷惑をかけるかもしれないので……」

「迷惑って、俺の彼女のこと?」

すると、久我山さんは頷いた。

「もしかして、あいつに何か言われたりした?」

「いいえ、それはないです」

「大丈夫だよ、こうやって話してるくらい。それに、あんまりうまくいってないんだ、彼女と」

言ってしまったあとで、これは相当嫌な男の言うことだな、とうしろめたい気持ちになった。一度ふった人に対して、思わせぶりなことを言っているのだから、たちが悪い。

「違うかもしれませんけど……、わたしのせいだったら、申しわけなくて……」

「久我山さんのせいとかじゃ、全然ないから。大丈夫、大丈夫」

「そうですか……」

「ごめんね、変なこと言って。気にしないで」

努めて明るい声を出すと、久我山さんも「はい」と頷いてくれた。

「それに、放送部やめたことを逃げたとか、そんなふうに思ってないから」

久我山さんは、でも……と呟くと、こう続ける。

「悪い癖なんですけど、友達とかとうまくいかないと、いつも自分から逃げちゃうんです。自分の何かが相手を不愉快にさせているってことだけは分かるんですけど、でも相手が何をどう考えているかは分からないから、これ以上不愉快にさせないように、嫌われないように、逃げるんです。自分も、嫌だなって思われたまま相手の側にいるの、辛いから。それの繰り返しなんです。だから、長いこと付き合える友達がいなくて」

ここはなんと答えるのがベターだろうか、と少し考えてから、「少なくとも、俺は嫌だなんて思ってなかったよ」「そういう気持ちはちょっと分かる気がする」「大丈夫だよ」などと俺は無責任な励ましの言葉を口にした。相談というのは元来、無責任なものだと思う。

考えていることに寄り添ってあげると、相手は安心する。みんな安心を欲しがっているし、自分のことを分かってほしいと思っている。だから俺は自分の喋りたいことを喋るのではなくて、相手の言って欲しいことをなるべく読み取って、言おう。

久我山さんの表情はまた少し明るくなったので、俺はホッとした。

それから数日間は、練習の邪魔になることを分かっていつつも、放課後は久我山さんの個人練に付き合ったり、それから途中まで一緒に帰ったりもした。会話の内容は主に久我山さんの部活のことや、音楽のことだ。

久我山さんの担当楽器であるクラリネットは、主旋律を演奏することが多いという。久我山さんは合奏について、

「主役を引き立てるための演奏じゃなくて、全部の楽器がそれぞれの役割をこなして、積みあがっていく感じがいいなって」

と、こういう考え方でやっているらしい。俺はそれに好感を覚えた。そして須藤だったら絶対こんなことは言わないだろう、とも思った。

放課後、久し振りに放送室へ出向く。卒業も近いので、放送室に置きっぱなしの私物を引き取らなくてはいけない。

放送ブースでは相変わらず都がFMを聴きながら、持ち込んだ音楽雑誌をめくっていて、他の部員もテレビを見たり、おしゃべりに興じたり、めいめいが好きなことをしていた。

俺がCDラックから自分の物を抜き取っていると、

「余計なお世話なのは承知で言いますけど」

と都がこちらをじっと見る。

「昨日の放課後、特別教室棟の隅の所に居ましたよね。見ましたよ、久我山ちゃんと仲良さそうで」

「うん、まあ、話してたけど。それがどうかした?」

すると、都はもともと目つきの悪い目を更に細くして、

「昨日だけじゃないです。前も昼休憩に一緒に居たの、見ましたし、一緒に帰ってたのも」

と低い声で言う。俺が、

「そんなんで俺、何か言われなきゃいけないの?」

と言い返すと、

「須藤先輩が見たらどう思うか、考えた方がいいんじゃないですか」

責め立ててくる。俺はいらいらしてきた。

「どうとも思わないだろ。他の女子と話してるだけで文句言われたら、たまらないよ」

「久我山ちゃんだってかわいそうです」

「どうして」

語気強めに言うと、都はむっとした。

「もう俺のことなんて、なんとも思っちゃいないって」

「部長がそう思いたいだけじゃないですか。自分が責任取りたくないから」

「あのさあ、なんでそう人の事にいちいち首突っ込んでくるの」

「私は見たことを、自分が知っている範疇で解釈して話してるだけで、首なんて突っ込んでません」

都はわけの分からない理論で喋るので、腹が立ってきた。そこで俺は都の弱点を突いてやろうと思い、ヤスのことを口にした。

「じゃあ俺も言わせてもらうけど、はっきり言ってヤスの前でいくらぶりっ子しても無理だからね。クラスに好きな子いるみたいだし。都じゃ相手にされないよ」

すると都は、はっとした顔になって、

「分かってます」

被せるようにそう言うと、ぐっと眉を寄せて唇を噛んだ。俺は、やばい、泣かしたか、と一瞬焦ったのだが、しかし形だけ謝る気にも、自分が悪かったという気にもなれないので、それならば、泣くなら勝手に泣けば、と開き直ることにした。都は俯いて、スカートを膝の上でぎゅっと握った。

そのまま放送室を後にしてからも考える。他人に優しくしたいのに、上手くいかないことばかりだ。優しさを受け取ってもらえなかったり、曲解されたりする。

夜、布団の中で何度も寝返りを打ちながら、今日あったことを考える。寝付けないのだ。うちの店は商店街の入り口で大通りと交差している場所にあるので、深夜でも結構うるさい。いつもは気にならないのに、車の音が耳につく。

放送室を出た後、俺は生まれて初めてタバコを吸った。

その時の俺はどうしてそんな所へ足が向いたのか。自分の心の不安定が、薄暗い場所に行きたがったのだろうか。

柴田たちが北校舎の裏の細い路地でとぐろを巻いていた。

柴田というのは隣のクラスの男子で、小学校の三年生から六年生まで俺は同じクラスだった。休憩時間にはよく一緒に、けいどろや元大中小というボール遊びなんかをしたものだったが、中学に入ってからは何やらぐれだして、悪そうな奴らとつるんでいる。

傍らにいるのは、あまり馴染みのない松岡だかという同級生と、背が低くて舎弟っぽい二年生が一人。

「榊さー、やっぱ須藤とヤってんの?」

通りがかりに、突然柴田が大きな声で聞いてきたので、俺は驚いて思わず周りを見渡してしまった。今の柴田たちと関わるのはめんどくさいと思いながら、

「おう」

と返事をした。

誰と誰が付き合っているとか、そういった話は興味がなくても回ってくるもので、俺と須藤が一年余り付き合っているのも例に漏れず、大体の奴が知るところとなっている。

「へえ、あいつどんななの? 普段男みたくしてたけどさー」

柴田ははばからず大声で聞いてくる。

「普通だよ、フツー」

答えてみたが、俺には普通が何なのか分からない。俺たちのしていることは普通ではないかもしれない。まだ責任も取れないうちから、中学生が大人の真似をしてセックスしているというのは滑稽なのかも。

柴田が手招きをするので、校舎の柱のでっぱりとでっぱりの間にあるコの字型スペースに入っていった。構内でもすごく人目につきにくい場所で、ここでリンチが行われていたとか、そんな噂を聞いたことがある。

「普通って何だよ。良くも悪くもないって感じ?」

「いや、俺、他の奴知らないし。普通っていうか、よく分かんないっていうか」

そう言うと、柴田はニヤニヤしながら背中を小突いてきた。

「でもまあ、めんどくさい奴だよ。須藤は」

俺がため息をつくと、柴田は笑って言う。

「ああ、だろうな。ああいうサバサバしてるように見える女は、実は結構やっかいなんだよな」

俺は不愉快に思った。自分の彼女について他人が知ったふうな口を利くな、と思わずむっとしてしまうのは独占欲の作用だろうか。

それから柴田は夏の花火大会の時に知り合った年上の女とヤっただの、アオカンだっただの、生々しい話を披露してくれた。

柴田がポケットから緑と白のカラーリングの小さな箱を取り出す。

「何、お前マルメンとか吸ってんの?」

松岡が柴田にじゃれついている。

「うるせえよ」

柴田は笑って、反対のポケットから出した百円ライターをかちかち鳴らした。

「学校でタバコか」

俺が思わず眉をひそめると、

「何、榊は吸わねえの?」

柴田はタバコをくわえたまま、もごもごと喋る。

「俺はいいよ」

断るのだが、

「ビビってんなよ。吸ってみろ」

強い口調で押し付けてくるので、まあいいや、と俺は柴田から一本受け取ってくわえた。先にライターの火がじりっと燃え移る。むせるかも、と思い、煙を恐る恐るちょっとだけ吸い込んで、胸に入れて吐き出す。意外とうまく吸えるものだ。脳が煙をうまいと感じる。味覚ではない。とげとげした気持ちが落ち着くような気がした。昇っていく白い煙の筋は、なかなか消えることがない。

松岡も自分のタバコを出して、吸い始めた。

「柴田は高校、どうするの?」

特に共通の話題もないので、俺はそう尋ねてみる。

「行くよ」

行くか行かないかを聞いているわけではない。俺は笑った。

「どこ行くの?」

「瀬野」

「あ、そうなんだ」

柴田の答えた高校は、名前を書くだけで通ると言われているような男子高で、あまりガラも良くないので、俺は曖昧に頷いた。

「榊は?」

「俺は東高……」

「お前はいいよなあ、頭いいしなあ、共学じゃんか。男子高とか、俺、絶対行きたくねえし」

だったら勉強すればよかったのに、と思う。どうして努力しないで、人を羨むのか。ちょっとでも勉強すれば、行ける共学の学校はあったろうに。そうやって何もせずに永遠に這いつくばってろ。何もかもに対して、今、毒を吐きたい気分だったが、もちろん口には出さなかった。

そんなことをしていると、こちらに近づいてくる足音が聞こえたので、俺たちは一瞬固まった。それから急いでタバコの先を砂地に押し付ける。

四階建ての北校舎の裏は暗い。焼却炉へのショートカットくらいしか通る機会はなく、放課後の遅い時間に人が通るのはまれだった。

「あ」

という高い声に目を上げると、通路に棒立ちになっているのは同じクラスの女子だった。吉野さんという人で、生徒会役員である。俺は更にめんどくさいことになった、という気持ちがどっと湧いた。

「榊君、何やってるの?」

吉野さんはきつい口調で詰め寄ってくる。

「何って……」

吉野さんの視線は俺たちの足元に向いていた。煤けている。煙の臭いもまだ消えていないので、タバコを吸っていたのはばれているのだろう。しかし、一見して分かることを聞くな、と言い返したい気持ちは抑えた。おそらく俺だから声を掛けたのだ。柴田たちだけなら見過ごすんじゃないだろうか。他人の不正は許せないが、相手によって態度を変えるという人は結構いる。

「テメー何なんだよ」

柴田が凄むと、吉野さんは一瞬怯んだように見えたが、すぐに持ち直して、

「三組の柴田君だよね? 北校舎裏でタバコ吸ってるって、先生達に言っておくから」

はっきりそう告げてくるりと背中を向けた。柴田はいきりたって吉野さんの肩を乱暴に掴む。昔から血の気の多い奴で、小学生の頃は男子だけでなく、女子とも口喧嘩になった末に叩いて泣かせていたことがあった。俺も喧嘩のとばっちりで殴られたことがある。

「チョーシこいてんじゃねえぞ、このブス」

ただ事ではない雰囲気になっているのに、後ろの二人は何もせずニヤニヤしているだけだ。

「柴田、やめとけよ」

俺が止めても、柴田は突っかかっていこうとする。

「榊も気取ってんじゃねえぞ」

「気取ってねえよ」

俺は柴田の腕を押さえながら吉野さんへ、向こうへ行け、というふうに首を振った。吉野さんは、ふん、と鼻を鳴らしスカートを翻して駆けて行った。

向き直った柴田が俺の胸ぐらを強く掴んで、

「お前さあ……」

と唸るような声を出した。また殴られるのか、と諦めて歯を食いしばるのだが、拳は飛んでこなかった。近くに寄ってみると分かるのだが、数年の間に俺と柴田では随分と体格差ができていたのだ。

毛布を体に巻きつけたイモムシのまま立ち上がって、部屋の腰窓を全開にした。日付の変わる瞬間も、車は走っている。昨日は今日につながっているが、零時を過ぎたからといって、すぐさま「明日」を「今日」と感じることがないように、卒業という枠を跨いだからといって、いきなり次のステージに行けたという実感が持てるわけではないのだろうな、と先のことを考える。眠らなければ、体が「明日」を「今日」と感じられるのは三時くらいからではないだろうか。桟へ腰かけて、冷たい空気を顔に浴びる。

吉野さんはタバコの件を先生に報告するだろう。高校の推薦入学はご破算になるのかもしれない。今の時点だと、選抜3でどこか受け直せなどと勧められたら、俺はそうするしかない。

翌朝学校へ行くと、案の定、ホームルームの始まる前に呼び出しを食らった。俺と、柴田ほか二名は生徒指導室に詰め込まれて、生徒指導の先生にきつく絞られることとなった。「はい、吸いました」「吸うのがいけないことだというのは分かっていました」「反省しています」などと俺たちは答えて、しばらく指導の続いたあと、一時間目の途中で俺と二年生の彼だけ解放された。このままばっくれたろうかな、という考えが浮かんだが、そんな自棄を起こしても面倒が増えるだけだということは理解しているので、おとなしく教室に戻った。

一時間目は数学だ。軽く水島先生に頭を下げると、無表情で先生は頷いた。何も言わないあたり、俺の事情は把握しているのだろう。吉野さんの方を見ると、吉野さんもこちらを見ていた。そして露骨に目を逸らされた。別に何もしねえよ、と俺は内心で舌打ちをした。

席に着くと、通路を挟んで隣に座っている女子が椅子から尻をはみ出させて、

「ねえねえ、タバコって本当?」

と小声で聞いてくる。

「うん」

「そうなんだー。柴田と仲良かったとか、意外」

「別に仲良くはないよ」

「ふーん」

本人に確かめたら気が済んだのか、彼女はすぐに切り替えて、授業に集中することにしたらしい。

教室の前の方の席に座っている須藤は、俺を振り返ったりはしない。俺はこんなことで興味を引きたいわけではないのだ、と自分に言い聞かせた。

休憩時間になっても須藤は近寄って来なかった。タバコの件は耳に入っているのだと思う。背中が怒っているように見える。話しかけづらいのでヤスへ、

「あいつ何か言ってた?」

と尋ねると、

「そんなの自分で聞きなさいよ。周りを巻き込まないこと」

とたしなめられた。

放課後は望田先生に理科準備室へ来るよう言われたので、従う。

「はい、おつかれ」

望田先生は手を上げて、向かいの席に座れ、というふうなジェスチャーをしている。俺は後ろ手で戸を閉めた。

「初回で見つかるとは、ツキのない奴だ」

タバコのことらしかったので、

「はあ」

と曖昧に返事をした。また先生らしくないことを言って、生徒の気を引こうとしているのだろうか。授業中、「教員なんてさ、なんにも偉くないんだ。ただの地方公務員風情が生意気言ってるだけなんだよね」などと何でもないような顔をして言う人である。俺はこの先生を嫌いではないが、好きでもない。

「生徒指導の方ではみっちり絞られたかな?」

「はい」

「最初、タバコの話を聞いたときはびっくりしたよ。でもお前さん最近ちょっとイライラしてるっぽかったからさ、ちょっと話してみようと思って」

「イライラしてるように見えますか?」

「うーん、私はそう思ったんだけど……」

「そうかもしれないです」

答えると、先生は立ち上がって窓際に置いてあるポットの所まで行き、ティーバッグの紅茶を淹れてくれた。目の前に「どうぞ」と紙コップを置いてくれる。

「ありがとうございます」

しばらく黙ったままで、紅茶を飲んだ。

「タバコは体に良くないぞ」

「先生、ヘビースモーカーじゃないですか」

口答えすると、

「今は全然吸ってないよ」

笑いながら先生は答えた。

「禁煙ですか?」

「うん、そう。子供できたから」

先生は何でもないふうに言う。驚きだった。

「えっ、そうなんですか。おめでとうございます」

「ありがとう。ま、それはいいんだけど。月並みなことを言うようだけど、成長期にタバコ吸うと依存症になりやすいし、体壊しやすいんだよ、大人よりね。だから二十歳まで我慢すること」

「はい」

俺は神妙に頷いた。

「榊が柴田や松岡たちと一緒にいるの、あんまり見たことないけど」

「柴田が小学校の同級生なんです」

「なるほどね。吉野から最初にタバコの話を聞いたのは私なんだけど、ちゃんと庇ってくれたそうだね、吉野を」

「あ、えっと……はい」

「ありがとうね。柴田はちょっと危なっかしいところがあるからね」

先生は眉を寄せて笑う。

「この時期は受験で三年生はみんな不安定だから、しょうがないところはあるんだ。それは教員も分かってる。それに、榊みたいに進路が決まってる生徒は悩みがないかって言うと、そういうわけでもないだろう?」

「はい。あの……」

言いかけると、先生は眉を上げて、「ん?」と聞く姿勢を作った。

「東高の推薦のことなんですけど、合格は取り消しになったりするんですか?」

すると先生は首を振る。

「これが推薦する前なら、榊は枠から外してたよ。学業が優秀でも問題のある生徒を推薦するわけにはいかないから。でも、もうこの時期になると人が動かせないんだ。高校にも申し送りはしない。大人の事情って言われてしまうと、ぐうの音も出ないんだけどさ」

俺は頷いた。それからしばらく黙った後、

「進路が決まったら、何か不安なことが出てきた?」

先生は優しい口調で聞いてくる。

「いえ、そういうわけじゃないんです。ただ……」

「うん」

「今、合格の取り消しはないって聞いて、すごく安心してしまって……。でも、なんかこういうのってフェアじゃないなって。何のペナルティもない、責任も取ってない、みたいでモヤモヤしました」

そう言うと、先生はちょっと考えるように俯いて、

「中学生だからね。何か懲罰をというわけにはいかないんだな。あくまで指導、教員はそれしかできないから」

と諭す。自分はまだ幼くて何もできない、ということを守られる立場でもって実感してしまうということは、苦しい。これならまだ、「子供のくせに」と押さえつけられて、罵られる方がましだ。それならまだ反抗だってしようものを。

「子供なんですよね、まだ、全然」

「そうだね」

「とっとと大人になりたいです。中坊の分際じゃ、なんにもできやしない」

「タバコ吸って大人になれりゃ世話ないわな」

先生は笑った。俺は茶化されて少しむっとした。それからは雑談になった。

「親しい人に、自分のことについて話さない、近況報告もしないっていう心理が分からないんです」

暗に須藤のことを口に出してみた。

「仲の良い人に対して、なんか悩んでるんだったら、自分に相談してほしいし、もっと頼ってほしいなって思うんです。俺自身、頼りがいのある人間じゃないかもしれませんけど……。でも正直、他の人からはそれなりに、何か相談されたり、頼ってもらえてた自分なのに、一番親しい人には全然あてにしてもらえない」

「その一番親しい人ってのは、榊が思うのと別の部分で榊と仲良くしてるんじゃないか? 弱いところを見せなきゃ、その人と仲が良いってことにはならないって榊は思ってるの?」

「でも楽しいから一緒にいるだけなら、誰だっていいじゃないですか」

話し始めると、止まらなくなった。先生は、

「相手を支配したいって思ってるんだな」

と冷たい声を出した。俺はどきりとして、

「そんなことないです」

反射的に首を振った。しかし、図星だ。考えていると、先生は何やらあわあわしだして、

「ああ、やばい、ごめん。今のは失言だった」

と謝る。

「え?」

「私が生徒のことで悩んでてテンション低いときに『マタニティブルーなんだね』って言ってくる人がいてさ、事情を知らない他人に自分の頭の中を勝手に解釈されるのってイラっとするよなって思ってたんだけど、私も同じことをしてしまった。ごめん」

ん? と思い、

「生徒のことって、僕ですか。すみません」

と俺も謝ると、

「うん。でも、ま、それは仕事だからね」

と先生は言う。

「先生、こうやって大喜利みたいなことしますよね、相談してるのに」

「ごめん」

「いえ、いいんです」

先生は謝り通しだ。

「クラスでも、見てると榊はうまく立ち回れてるんじゃないかと思うよ。周りのこと、よく見てるし、フォローも上手いし。私は人付き合い苦手な人間だから、榊の話聞くだけしかできないな、ろくなアドヴァイスができない」

お前は人付き合いが下手ではない、と認めてもらえて、ちょっと嬉しくなったので、

「聞いてもらえただけで良かったです」

俺は首を振って答えた。

理科準備室から出ると、廊下の窓が紫から赤のグラデーションになっていて、しばし見とれた。夕焼けってこの世っぽくない。

荷物を取りに教室へ戻る。もうみんな帰ってしまっていて、俺の席では須藤が俺の鞄を枕にして眠っていた。

「待っててくれたの?」

わざわざこうやって俺の席で鞄を人質にしているのだから、俺に話があるのだろうに、声をかけても起きない。この相変わらずの無防備は、もしかすると、わざとでぶりっ子なのだろうか? そう疑いながらも、キスしたい、などと思ってしまう俺は、純粋さに惹かれているわけではなくて、偽物でも何でもいいから、可愛くてやらせてくれる隙のあるところに引っ張られているだけっぽい。

髪を撫でても起きない。ほっぺたをつつくと、口をもぐもぐさせるが起きない。セーラー服の下に着ているTシャツの背中が見えているので、ちょっと引っ張って裾を出してみる。やはり起きないので、背中に手を突っ込んで触る。薄暗い教室で、寝ている女の子の体をまさぐっているという変態行為に、妙に興奮してしまう。このまま俺が帰ったら、目覚めた須藤は自分の服が乱れているのに焦るだろう。寝ている間に、誰かにいやらしいことをされました。

すると、須藤がビクンとなって目を覚ました。

「榊、おかえり……」

「ただいま」

「待ってたんだ。一緒に帰ろうと思って」

「うん。なんか、俺、久し振りに須藤と喋った気がするな」

「え、嘘。オレ昨日喋ったじゃん」

「そう?」

「そうだよ。傷付く、そういうの、なんか」

俺は素直に謝った。頭が勝手に須藤との会話を飛ばしていたのだろうか。須藤はTシャツの裾が出ていることに気付かないで、そのまま鞄を背負って帰り支度をするので、俺はそれとなく裾をスカートに突っ込んでやった。須藤は何事かと身じろぎした。

帰り道を歩きながら、

「聞いたよ、タバコだってね」

と須藤は俺を見上げた。

「うん……」

「何やってんの」

「すみません」

「ばかだなあ、もうすぐ卒業だからって気が緩んでるんじゃないの?」

「はい……仰るとおりです」

「まあ、別に、オレには関係ないけど」

「本当に、関係ないって思ってるの?」

思わず驚いた声を出すと、須藤はちょっとイラっとしたのか、

「はあ? 勝手にタバコ吸って怒られたのは榊でしょ? オレ関係ないじゃん。榊がばかなだけじゃん。何言ってんの?」

と言い返してくる。

「いや、タバコのことは俺が悪いんだけど、そうじゃなくて、俺のこと全部、何でもかんでも関係ないって、須藤に思われてるのが悲しい」

「意味が分かんない」

俺は内心で「意味は分かるだろう」と憤慨した。自分がものすごくおかしなことを言っているようには思えないのに、須藤には俺の言葉が通じないようだ。相手に話が通じないもどかしさは、水に溺れるときの苦しさに似ている。吐き出すばかりで、吸えない。

「俺はもっと須藤と仲良くしたいんだ。せっかく付き合ってるんだから、もっとお互い関心を持ってやっていきたいというか。俺は今まで須藤と何でも言い合えるって思ってたけど、須藤はそうじゃなかったんだって気付いて、結構ショック受けてて……」

「一大付属のこと?」

須藤が尋ねるので、俺は頷いた。

「大体、須藤は昔から俺に自分の考えてること言わないだろ。ずっと気にはなってたけど、一大付属のことで、不満が爆発した感じ」

「だって、言ったって仕方ないって思ったから言わなかったんだ。言ったら状況が変わった? 変わらないだろ? それに、オレは自分一人で決めたかったんだもん」

もはや話し合いは無用に思える。

「人の気持ちの分からない奴だな」

と言うと、須藤はむすっとして、一人で先々歩き始めた。背中が遠くなっていくのを、何も言わずに見送った。

重苦しい気持ちのまま家に帰ると、母が鬼のような顔をしていた。タバコのことで、ここでもまた、薬剤師らしい観点から健康面でのデメリットを切々と語られた。父が帰って来ると、更にそこでも説教が繰り広げられたが、父はある程度俺の気持ちも汲んでくれるので、母よりはいくらかリラックスした気持ちでそれを聞いた。

「敦司の判断力とか理解力を疑ってるわけじゃないよ。こいつはもう分かってるだろうなって思ってても、言わなきゃいられないもんなんだ、人の親をやってると。職業病みたいなもんだ」

とは父。

数日後、俺が近所の河原で一人、ボンヤリしていると、背後から自転車のベルの音がする。ジリジリと何度もしつこく鳴らされるので何かと振り返って見上げると、舗道に自転車へ跨ったヤスがいた。

「うるさいよ」

ヤスがいつまでもベルを鳴らし続けるので、叫んだ。

「何、センチメンタりってんのよ」

ヤスは自転車のスタンドを下ろさず、車止めに寄り掛かるような乱雑な停め方をして、斜面を駆け下りてくる。

「センチメンタりってはないですけど」

斜面を下りる勢いで水際まで走って行ったヤスは小さくてつるっとした石を一つ拾って、目の前に掲げた。それを川へ投げる。

「さすが元野球部」

ヤスは一年生の頃、少しの間だけ野球部に所属していたというので、ふざけてそう持ち上げると、ヤスは俺を振り返って、もう一つ石を拾った。そして、今度は何やら本格的なフォームで振りかぶる。素晴らしいサイドスローから、石は三回水面を跳ねた。

「この間、俺の……タバコがばれたときにさ、望田先生から聞いたんだけど」

俺が話し始めると、ヤスは新しく拾った石を手の中に弄んだまま、こっちに来て、俺と同じように地べたに座った。

「俺の場合はだけど、高校には知らせないんだって」

「そうなの」

「何もなかったような顔して進学できるみたい。ヤスも、そうだといいんだけど」

「そうね……。でも、もし殴ったことが原因で受験が駄目になっても、それはそれで受け止めようと思う」

ヤスはきっぱりと言った。

「高専の入試の方はどうだったの? 手応えあった?」

「テストは得意だから」

「そうだよな。ヤスなら、まあ、通るよね」

「通るかどうかは分かんない。駄目なら最悪高校浪人ね」

「きついよ、それ。どこでもいいから、どっか入った方がいいって」

俺がそう言うと、ヤスはため息をついて川の向こうに目をやった。下流の川の水は大して綺麗でもなく、見た感じ流れているのか淀んでいるのか分からない。対岸で釣り糸を垂らしている人がいる。

「魚住さんとはどうなの?」

その問いにヤスは目を動かさないで、

「まあ、ぼくなりに……」

と無味乾燥な口調でうやむやにする。恋愛についての質問には、やはり答えないヤスだ。

「そっか」

それからヤスはひとり言のように、こんなことを言った。

「セックスしたから大人になれるわけじゃないのよ」

何に対しての言葉なのかは分からない。

「言うね」

ポイントが貯まったら大人になれるシステムだったらいいのに。セックスしたら一ポイント。ゲームみたいに経験の蓄積でもって目に見えて成長したことが分かればいいのに。しかし実際は、セックスしたから成長するなんてことはないし、相手との絆が深まるとも限らない。リスク有りの気持ち良さだけ。下手すりゃリスクだけ。

「俺、子供作ろうかな」

ふざけて言ってみると、ヤスに睨まれたので、

「冗談だけど」

と俺もため息をついた。

卒業に桜のイメージを最初にくっ付けたのは誰だろう。ソメイヨシノが三月初旬に咲いているところなんて見たことがないのに。風は冷たくて、空気は透き通っていない。きっと花粉が舞っている。

男女混合の出席番号順だと、俺のすぐ後が須藤である。卒業式では隣に座る。式典の間、仕切りたがりで、クラスでは何かと目立つ位置にいる女子が数人、泣いていた。みんなの前で臆せず真っ正直に泣けるっていうのは特技だと思う。自分の前で泣かれるとめんどくさいと思うくせに、泣いているのを遠くから見るのは可愛いと感じるものだ。隣を見ると、須藤は涼しい顔をしていた。

式が終わって、ホームルームを済ませた後、中庭に出る。放送部の後輩らが俺を見つけて駆け寄って来た。都はいない。この間ひどいことを言って申し訳なかったと謝りたいのだが、それさえ避けられているのかもしれなかった。

何となく吹奏楽部の女子たちがかたまっている所に視線をやると、久我山さんが魚住さんと話しているのが見えた。微笑ましいような気持ちでそれを眺めていると、久我山さんは話し終わったのか、ふっとこっちを見た。ちょっと話したいな、そう思って、俺は久我山さんの方へ近寄っていった。

「卒業おめでとうございます」

久我山さんは丁寧に頭を下げる。

「ありがとう。まあ、卒業っていっても、すぐ隣に移るだけだけどね」

東高はこの中学の敷地のすぐ隣にあるので、いまいち卒業という感じがしない。

「部長には色々お世話になって……」

「ううん、俺の方こそ」

「あの、ちょっと、いいですか」

と久我山さんが小さく手招きをして、俺を渡り廊下の陰に誘導するので素直についていく。久我山さんは何かを溜めるようにしばらく黙った後、俺の目を見て、

「最後に、もしご迷惑じゃなかったら第二ボタンを貰えませんか」

と一息に言った。俺の中には嬉しいという気持ちが湧き上がって来た。おそらく半笑いみたいな表情のまま、

「いいよ。ちょっと待ってね」

と自分の第二ボタンを引きちぎって、糸くずのごみをそっと取って久我山さんに手渡すと、久我山さんはそれをぎゅっと握って、

「ありがとうございます」

と頭を下げるのだった。

告白されたときのように答を出さなくてもいい、という安心感からか、俺は嬉しさでその日一日中ふわふわしていた。

新学期まであと一カ月弱、やはり須藤のことが気になる。しかし、自分がもう、別れたいのか続けたいのか、それすらはっきりしない。無理に今別れ話をして無駄にストレスをかけるよりも、続けることにして、それからゆっくりと冷めていく関係をただ観察する方が精神衛生にはいいのかもしれない、とも思う。

ぐだぐだと考えているうちに、須藤に会わないまま四月になった。

しかし、やはり話をしないとどうしようもなかろう。須藤の方からは何も言ってきてくれない、ということに憤りを感じながらも、俺は須藤の家に電話をかけた。絶対に本人が出ると分かってかける電話って緊張しない。

「はい、須藤です」

一カ月も話していないのに、声を聞くと、いつもの感じがしてホッとする。須藤は、

「今、部屋の片づけしてるんだ。散らかってるのでもよければ、家に来なよ」

と言うので、俺は部屋着からジーンズだけ穿き替えて、須藤の家へ向かった。

ひと月ぶりに会った須藤は、耳が全部出るくらいにさっぱりと髪を短くしていた。

「またちょっと短くしたんだ?」

と聞くと、

「うん、入学前に切っとこうと思って。学校の周りがド田舎だからさ、近くに床屋がなかったら困るじゃん」

須藤は襟足を指で撫でつける。

「そんなん、こっちに帰って来ないみたいに言うなよ……」

泣きそうな声になってしまう俺の袖を須藤は引っ張って、

「帰って来た方がいい?」

と甘ったるい声を出して見上げてくる。顔を見ない間冷めていた気持ちも、やっぱり二人で会うと盛り上がってくるもので、胸の辺りがきゅうと締まる。

「卒業しても会いたいよ」

俺が言うと、須藤はぷいっと背中を向けて、自分の部屋の方へ歩いていくので、それについて行った。

「片付けしてたんだけど」

と、須藤は部屋のドアを開けた。荷物の詰まった段ボールが二つ床に置いてある。六畳くらいの広さでフローリングの須藤の部屋は、机と本棚、衣装ケースが三つとベッドしかない。元々、物をあまり置かない主義のようだが、いつにも増してスカスカになっていた。

「ますます殺風景になったな」

「送れるものは先に向こうへ送ろうと思うから」

部屋の隅には荷造り用のガムテープや余った段ボールが置かれていた。それが一層、もの寂しさを際立たせていた。

須藤は女子の色を好まない。しかし、小学生の頃にはよく女子の色、男子の色を決めて、それを持つことで男女を主張していた。俺たちは昔、こんな話をよくしたものだった。

「赤とかピンクは女。青は男、黒も男」

と須藤が言うので、

「白は女かな?」

聞くと、

「そうだね」

須藤は頷く。俺は続ける。

「緑は?」

「んー、緑は男」

「黄色は?」

「うーん……女?」

「でもキレンジャーは男だよ」

俺が言うと、

「そっか、じゃあ男。でもその理屈だと赤も男になっちゃう」

須藤は笑った。

上履きもランドセルも女子は赤色。男女で決まった色を持たされるときは、よく「赤は嫌い、榊の持ってる青のやつがいい」と羨ましがられたものだ。俺が「須藤は見た目が男っぽいだろ、だから周りの人が間違えないように、須藤は女ですよって分かるようにするための赤色なんだって」となだめると、「オレは男に間違われてもいいもん」と放言していた。

持ち物は常に簡素。色味は寒色系かモノトーンが多くて、清潔な感じがする。俺はそれをむやみに汚したくなる。

目の前のシンプルな黒いパイプベッドには、ぱりっとした真っ白なシーツのかかった布団が乗っていた。須藤はそのベッドに腰掛けて、俺に隣に座るよう、ぽんぽんと指図するので、座る。

「あのさ、オレ、榊の言いたいことが分からないわけじゃないんだよ」

須藤が話し始めたので、俺は深く腰掛けて聴く姿勢になる。

「オレだって榊と仲良くしたい。でも、榊にどんどんオレの中へ入って来られるのは怖いって思う」

「それは、もっと上辺だけの付き合いにしたいってこと?」

尋ねると須藤は首を振って、

「どうしてそう、悪いふうに言うの?」

と眉を寄せた。

「助けられ過ぎるのが嫌だっていうのもあるけど、それとは別に、オレは、陸上のことがすごく大事で、それは榊のこととは別に考えたいんだ。陸上のことを考えるときに、なるべく他の考えは混ぜたくない。オレ、ばかだからさ、器用に分けて考えられないの」

「ばかとは言わないけど、極端だよ……」

「オレはいつもそんな感じだよ。例えば、榊は人に優しくて、誰とでもうまくやれて、好かれてるだろ? でも、だから好きになったわけじゃない。榊がどんなに他の人に優しくても、オレには冷たかったら嫌な気持ちになるし、逆に他の人からは嫌な奴だって言われてたとしても、オレと一緒にいる時はいい奴だったら好きだ。好きになってからずっと、オレはオレに対する以外の榊に興味ないんだ。二人の関係は二人だけで完結すると思う」

ノイズは耳に入れない、というやり方で須藤はずっと生きてきたのらしい。だから一人でいても、それで女子に陰で何か言われても、平気でいられたのか。俺とは全然考え方が違う。理屈では須藤の言うことも分かるのだが、俺は彼氏彼女の関係だって、社会に対して開いていると思う。人間関係はどこにも完結しない。見えないところまで延々と繋がっている。俺が動くと波が立って、海の向こうまで小さな波が打つ。また俺自身も、常に波に揺られている。

「須藤は自分に自信があるんだよ、だから他の人から影響を受けなくても平気だし、他の人がいなくても自分一人で生きていけると思えるんじゃないの?」

ついとげとげしい口調になる。須藤は社会性がなくたって自力で強く生きていけると思っているし、社会性のなさを補って余りある陸上の才能を持っているから、他人に注目されたり、大事にもしてもらえるのだろう。俺はそんな須藤のことが羨ましくて死にそうになる。俺は自分が須藤みたいに大した奴ではないと諦めているから、身近な人に特別に思われることで、その劣等感を掃いたい。そのために、人に優しくして、愚痴でも自慢でもなんでも聞いてあげたいのに。というところまで考えて、俺は前に望田先生に言われた「相手を支配したいと思ってるんだな」という言葉を思い出し、頭が痛くなった。

俺が須藤のことを好きになったきっかけも、須藤が夜中に俺の家に来て好きだって言ってくれたときも、頼りない表情でもって俺の劣等感を思いきり揺さぶってきたから、俺は耐えられなくなるのだ。強い奴が俺なんかに腹を見せてくれている、そう思うだけで強く引っ張られてしまう。時々誘惑するように孤独をチラチラ見せられて、俺はそれに煽られるだけ。

須藤は言う。

「自信なんてないよ。オレは走ることしか取り柄がないんだ。勉強できないし、人付き合いも苦手だし。オレは榊のこと、羨ましいって思ってるよ」

「嘘だ」

「本当だよ。勉強ができたり、人付き合いが上手だから榊のことを好きになったわけじゃないけど、でも、羨ましいとは思ってるよ、オレにはできないことだから」

須藤が俺の腕をつかんで必死に言ってくれるので、波立った心は静まりそうだ。俺は頷いて、間を詰めて須藤にぴったりくっ付いた。

「俺って単純でバカだよねえ」

と須藤の頭に顎を乗せる。

「俺が須藤にもっと頼ってほしいなって思っても、学校が離れると、今よりもっとそれが難しくなっていくんだな」

もう須藤に対する怒りはなくて、誰に言うでもない。仕方がないこととして呟くだけだ。呟きは須藤の頭のてっぺんに響いて聞こえているだろう。

「うん……。オレは自分の考え方を変えられない。榊に嫌われるのは辛いけど、それでも変えられないや」

須藤の声は俺の顎の骨に響いてくる。須藤は続けて、

「でも、もう少し、嫌われるまでは一緒にいたいと思う」

と言うので、

「うん」

俺は答えた。

「遠距離になるけど……続けたい。そのうち嫌われるのが分かってても、オレは榊のこと好き」

須藤はそう言って顔を上げようとするので、顎をどけてやった。その勢いでキスをすると、須藤が俺の肩を触ってくる。誘ってくれているのかな、と思い、そのままベッドに押し倒すと、須藤は俺の背中をぎゅっと抱いた。

「ベッド、ぼろいからギシギシうるさいかも」

須藤の家でセックスをしたことがない。須藤の部屋が店に下りる階段に近いことや、親父さんに対してうしろめたい気持ちもあって、するときはいつも俺の部屋でしていた。

「店、閉まってたけど、親父さん出かけてるの?」

重なったまま尋ねると、

「うん、今日は組合の集まりがあるって。晩は飲み会って言ってたから遅くなると思うよ……」

と須藤は俺の下でもじもじする。

「してもいい?」

すると須藤が「いいよ」と言うので、布団をめくって潜り込んだ。お互い裸になると、その後は何も喋らずにひたすらべたべた触り合った。ただ性器を入れるときだけ、「いい?」と確認すると須藤は頷いたので、入れた。

ベッドの軋む音って、なんていやらしいんだろう。

一所懸命動かしている間はいつも、須藤に優しくしてやりたい、好きだ、という気持ちと、とにかくがむしゃらに貪りたいという純度の高い性欲がぶつかり合ってそれが混じり合うことがない。火花が散って、頭が焼けるよう。射精して性欲が引いた後には純度の高い、好き、だけが残った。この感覚を忘れないようにしようと思う。

終わった後で、須藤がこんなことを言いだした。

「卒業式の日に、オレ、見ちゃった」

「何を?」

「榊が久我山さんに第二ボタンをあげていた」

須藤はにやにやする。俺はどきりとして、ごめん、と謝った。

「どうして? 謝ることないよ。第二ボタンは後輩の物でしょ。オレが貰うもんでもないじゃん。それに、久我山さんの気持ちも分かるから」

「うーん」

決まりの悪くなった俺は、もごもごと返事をした。

「半年前のオレだったら嫉妬して、榊に当たり散らしてたよね。それを考えると、半年前に色々あって良かったな。今大ゲンカになったら、どうにもならなかったよ」

須藤は体を丸めて、

「ああ、あんなふうにカッとなった自分が恥ずかしいな」

と向こうへ寝返りを打った。

恋人にはダメな自分もありのまま全部認めてほしいと思う人と、恋人の前では理想の自分でありたい、という人がいて、須藤は後者に極端なのだろう。恋人の前では一番美しい姿でいたいからと外見を飾る人がたくさんいるように、須藤は理想の自分でありたいのだ、俺の前では。と、好意的に解釈しよう。

離れていると布団の中に空洞が空いて寒いので、須藤にくっ付いていくと、須藤はくすぐったいのかもぞもぞと暴れた。後ろから胸を揉むと、

「胸なんか揉んで面白いの?」

と聞いてくる。

「面白い。男にはこの柔らかさはない」

答えると、

「ふうん。じゃあもっと巨乳だったら良かったね」

と須藤は自虐的なことを言うので、

「俺はグラビアアイドルみたいのってあんまり好きじゃない。ああいうのってザ・女って感じじゃん」

と返した。

「百均みたいだね、ザ・何々って」

「胸はちょっとでいい。俺はもっとストイックな感じが好きなんだ。走るために鍛え上げられた形にエロを見るのがいやらしいって思う。用途とは違う使い方にエロが見える。屈折すればするほどエロい」

思わず説明に力が入る。

「そっか、なんか変態っぽいね」

「はい」

それから須藤は体をねじって布団に潜り込むと、俺の性器をなにやら弄り始めた。

「なんだよ」

「えへへ」

「ちんこはおもちゃじゃありません」

「おもちゃだよ」

気持ちが良くなってきたので、須藤のしたいようにさせた。舐めてくれたので、俺は快感に集中して、すぐに射精した。須藤はそれを飲み下したようだった。

「発見した」

と須藤がティッシュで口を拭いながら言う。

「ん?」

「薄いと苦い」

「ばか」

そうしてじゃれ合っているうちに、須藤は向こう向きに丸くなって眠ってしまった。背中が呼吸のたびに膨らむので、くっ付いている俺の腹が圧迫される。俺はなんとなく呼吸のリズムを合わせてみようと息を吸ったり吐いたりしてみたが、俺よりもずっと体の小さい須藤の呼吸は浅すぎて苦しい。

ちょっとだけ俺も眠って、その後夕飯を二人で作って食べた。

家への帰り道をだらだら歩きながら、帰り際に須藤に手渡された袋の中を見る。長いこと貸していた漫画やゲーム、弁当箱。学校の屋上で一緒に弁当を食べることは、もうない。

入学式を明日に控えた日、寮に前日入りするという須藤を見送るため、二人で路面電車に乗ってターミナル駅まで行った。在来線乗り場の一番端にある九番ホームの更に端に行って、ベンチに腰掛ける。

「四月中には一回帰ってくるからね」

須藤がやたらとべたべたしたがるので、手を握ってやった。いつもは、人前であんまりくっつかないで、と言うくせに。

「榊、大きい。洗濯物のいい匂い、あったかい、優しい、好きだ」

脈絡のないことを言い出すので、何かと聞くと、

「感覚じゃなくて、言葉でしか思い出せなくなっていくんだと思う。だから今のうちにいっぱい口に出して、確認しとく」

と淋しいことを言う。匂いや感触などをそのまま記憶することは難しいから、言葉に変換して長く覚えておけるようにする。言葉で感覚を正しくよみがえらせることはできないが、感覚の欠片を少しでも残したい、ということなのだろう。手を強くぎゅうぎゅう握ると、須藤も同じようにし返してきた。須藤は俺の肩にこめかみを乗せて言う。

「明日何が起こるか分からないってことは素直に飲みこめるのに、明日の自分の気持ちが分からないって考えると、何だかモヤモヤする。気持ちは自分で持っていけるのに、コントロールできそうなものが実はできないって考えると、辛くなるね」

「またー、そうやって悲しいことを言う」

須藤は俺の方が先に須藤を嫌いになる、なんて言うが、どうだろう。永遠に続く気持ちというのは、無論ないにしても。

「ずっと好きだよ、とか、言わない方がいいのかな?」

俺がちょっとふざけると、

「うん、言わないが吉」

須藤が答えるので、

「そうか」

俺は頷いた。ホームの人がちょっとはけたので、

「これ、今キスしていいと思う?」

聞いてみると、

「さっとやればいいよ」

と須藤は前を向いたままキス待ちみたいな顔をしたので、本当にさっとキスした。それからしばらく感傷たっぷりに思い出話などしていると、須藤の乗る電車がホームに入って来た。しかし思ったよりホームの内側に停車したので、俺たちは慌てて走って行って、須藤は先頭車両へ乗り込んだ。

「着いたら電話するね」

「分かった。じゃあ真っ直ぐ家に帰る」

「うん。じゃあ、またね」

「うん……」

手を振ると涙が出てきそうになったので、歯を食いしばって引っ込めた。しかし、俺は須藤の前で泣いたことが何度かあるので、今の顔は泣きそうなときの顔だな、とばれたに違いない。

黄色い電車の尻を見送ると、俺は降車した人の流れに従ってふらふらと歩いていって、糸の切れた人形みたいにベンチへカクンと座る。項垂れたまま、俺はしばらくその場所から動けなかった。そのまま、何本か電車が通り過ぎた。帰る時間は父より遅くなるだろう。

べったりひっつけて何年もそのままだったシールを思いっきり剥がされる。きれいに剥がれるわけがない。残りカスを爪でちまちま剥いでいく作業を、俺はこれから続けなければならないのかもしれなかった。

目を上げると、こちらのホームと向かいの建物の間の空に月があった。三日月がちょうど電線に引っ掛かって、爪の先ぎりぎりでぶら下がっているように見える。目線をずらすと、月は落っこちてしまうだろう。俺はようやく立ち上がって、のろのろと跨線橋を上っていく。

Jul11, 2012

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