〔二〕
文化祭は十一月第二週の二日間行われる。ヤスが「生徒会の余興で女装をする」とか言い出したので、皆で面白がってカツラをかぶせたりスカートを穿かせたりした。普段からくねくねしている奴なので、見た目を女にするとホンモノっぽい。須藤と制服を交換してはしゃいでいたが、もうこのままでもいいような気がする。
「榊、本番の化粧やってよ」
と頼まれたので、俺はちょっと嬉しくなって張り切った。
文化祭初日の朝、舞台上で放送機材のセッティングを終えた俺は、袖でヤスの化粧に取りかかった。化粧下地を取って額に薄く伸ばす。
「ヤスって顔だけはいいもんな」
「『だけ』とかひどい」
男のくせに小顔で色白、二重瞼で切れ長の目をしているので化粧映えがする。少々厚めにファンデーションを塗る。
「黙って立ってりゃ女に見えるようにしてやる」
俺が言うと、
「一応言っておくけど、ぼくは男色に興味ないから」
そんなことを言い出すので噴き出してしまった。
本人がそう心配しなくても、実際ヤスは結構女子に人気があるのだった。この個性の強い性格を知らない女子はヤスを遠くから眺めて騒いでいるし、知っている子は「私だけがこのキャラを理解できるの」といった気概でヤスと仲良くしようとする。
それでも恋愛にまで発展する子はいない。しょっちゅう女子の輪の中へ入って遊んだりしてはいるが、特定の女子とだけ個人的に仲良くする気はないようだ。男女を逆にすると、その点が昔の須藤とよく似ている。
アイラインを引くと、大きな目がよく目立つ。
「これ、目をこすってもいいの?」
「だめ」
「目が痒いときはどうするの?」
「我慢」
「えー」
さらにつけ睫毛をしてやると、場末のバーのママという感じになった。余裕で一回りくらい老けて見える。
「体育祭の時、ケンカしてたでしょ」
不意に尋ねられたので、手元に集中していた俺は反射的に「うん」と答えてしまった。言ったあとで、あ、須藤のことか? と思い当たる。
「心配してたわよ、魚住とか」
「ああ、ごめん」
「ま、回復も早かったけど」
「お騒がせしました」
「付き合ってるのを周りの人間が皆知ってるっていう状況も色々と大変ね」
親も含め周囲の人たちは皆、俺と須藤が付き合っているのを好意的に見てくれている。確かに放っておいて欲しい時もあるが、こうやって何かあったときには心配してくれたり、フォローがあったりするのはありがたいことだ。
「でも、ちょっと羨ましいわね」
「ん?」
羨ましい、とは何だ。好きな奴でもできたのだろうか、と気になるところはあったが口紅を塗り始めたのでお互い黙った。
女子に興味本位であれこれ聞かれることはあっても、男同士で恋愛について話すなんて普通しない。特にヤスは人前で性的なことを聞くのも話すのも苦手ならしく、猥談にも眉をひそめるくらいの潔癖なのだ。真面目な顔をして須藤とのことを口にするなんて、驚きだった。
ヤスが舞台に出ている間、俺は舞台袖のミキサーに貼りついていたせいで見ることは出来なかったのだが、どうも相当暴れたらしい。客席からは女子の悲鳴混じりのどよめきが聞こえていた。
二日目、展示発表のラジオ放送では時間中、都が放送ブースでしゃべくりまくっていた。ハイテンションな喋りに反して選曲は落ち着いていたのでギャップが可笑しい。ジョン・レノンが流れてきて、リクエストした奴誰だよ、と俺は笑った。
日毎に昼が短くなっていった。体育祭、文化祭と主に部活で慌ただしい時期は終わり、三年生は誰もかれも三カ月後の高校受験について考え始めているようだった。
俺は普通科で近ければどこでもいいという考え方なので、中学校のすぐ隣にある公立高校を受けようかと思っている。その高校の偏差値はまあ高いが、俺の成績は結構良かったので指定校推薦か、それがだめでも一般でするっと通るだろうと呑気なものだった。
朝練の後の一時間目の須藤はウトウトとしている。俺はいつもそれを後ろから面白く眺めているのだが、最近少々心配になってきた。
須藤はあまり勉強が得意ではない。この辺りに須藤の学力で通えそうな高校というと、私立の女子高が二校ほどだ。
昔ほどひどくはないにしろ、あいつが女子だけの集団の中でうまくやっていけるのか俺は勝手に不安に思っている。余計な世話だと本人には突っぱねられそうなので、口にはしない。
また、できれば同じ高校へ行きたい、と俺は思っているが無理に勉強をしろと追い立てることはしたくなかった。
日曜日、陸上の大会のため隣県へ行くという須藤を見送った後、駅前の本屋でぶらぶらしているとヤスを見つけた。過去問を手に取ってしげしげと眺めている。声をかけて色々話していると、ヤスは県内の高専へ進学したいのだと言う。今までそんなことは一言も口にしたことがなかったので、それを聞いて俺は一瞬ぽかんとしてしまった。
「なんでまた」
「手っ取り早く家を出られる進路がこれかなって思っただけよ。まあ、出るって言っても親の金で学校行かせてもらうわけだから、自立したことにはなんないけど。手に職つけたら、とっとと就職したいわね」
「すげえな。ちゃんと考えてるんだな、そういうの」
「ぼさっとしてると、すぐ大人になっちゃうわよ。肉体年齢に精神年齢がいつまでも追い付かないのは嫌だから」
詳しくは俺も聞かないし、ヤスも自分から細かいことを話したりはしないが、ヤスは親と折り合いが悪いらしいので、一刻も早く家を出たいと言うのには俺も納得した。
そして高校受験の段階なんてまだまだ俺たちモラトリアムでしょ、と思っている俺はヤスの言葉にちょっとひやりとさせられた。クラスでも生徒会でもばかやっているが、俺なんかよりもずっと真面目に考えている。
「やっぱさ、通えないから寮だろ?」
「そうね」
あっさりとヤスは頷く。
「寮かあ、なんか大変そうだな」
赤の他人と何年も欠かさず寝食を共にするなんて息が詰まりそうだ。俺が失礼にもそう言うと、ヤスは不思議そうな顔をして、それから「何も問題ないわよ」と答えた。
先のことについて、みんな口には出さないが結構真剣なんだな、と俺は打ちのめされてしまった。俺が考えなさすぎなのだろうか。
ヤスと別れ、帰りは路面電車のつり革に掴まりながら、自分も将来のことについてもっと具体的に考えなければ、とじっと意識を集中させる。しかし中学を卒業して、高校三年を経過した後は大学へ進学するのか、美容の専門へ行くのか、はたまた、と考えが及んだところで完全に詰まってしまった。世間知らずな俺は社会へ出るための枝葉がどうやって伸びているのかも、多分何一つ分かっていないのだ。
なんか茫漠と不安、と思いながらも須藤のことは考えの中心にあった。将来、仕事で何をするにしたって一緒にいたいと思っている。しかしこれも、ただがむしゃらに須藤を欲しがっていれば叶うことなのかどうか分からない。やっぱり茫漠と不安、なのだった。
翌朝、学校で須藤と顔を合わせた時に、
「おはよう。昨日の大会、どうだった?」
と俺が挨拶すると、
「うん、まあまあ」
と言葉を濁す。須藤はあまりそれについて詳しく話したいそぶりがなかったので、俺はそこで尋ねるのをやめにした。
しばらくして始業のチャイムが鳴ると、望田先生はそわそわしながら教室に入ってきた。先生は須藤の座っている方へ視線を動かすと、「須藤が昨日、陸上の地区大会で大会新記録を出した」ということをちょっと興奮したように喋った。須藤はクラスの歓声や拍手に対して恥ずかしそうに俯いている。
どこが「まあまあ」なんだか。絶好調じゃないか。大会新を出したともなれば、どうせ他の陸上部員から追い追い話は回ってくるのだろうし、来週の朝礼で表彰もされるだろうに。俺はあまり気分がよくない。こういうことを須藤は俺にちっとも言わないのだ。開催場所が近ければ、ちょくちょく須藤の出る大会を見に行くのはそのせいもある。しかし、須藤の生活に食い込んでいこうと必死なのが、自分でもなんだかばかみたいだと思った。
須藤は競技に関することの枠の中へ俺を入れたくないのだ。競技者ってみんなそういうもんなのかね、と俺は度々ささくれた気持ちになる。
放課後、部活を終え家に帰るとテーブルへ朝刊が無造作に広げてある。地方のスポーツ欄に昨日須藤が出場した大会の記事があった。800メートル一位の欄へしっかりと『須藤純』と書いてある。その隣にタイムと括弧書きで『大会新』とも書いてある。ちょうど二階へ上がってきていた母は新聞を読んでいる俺を一瞥して「すごいでしょう」と何故か自慢するみたいにうなり、また店へ下りていった。
翌週にはそんなささくれ立った気持ちなど一旦忘れて、須藤と一緒に近所の祭りへ出かけた。俺たちの住む商店街よりもずっと大きな、繁華街の方にある商店街の祭りだ。芋洗いの人ごみの中を歩く。人前でやたらとべたべたしない、と決めている俺たちだけれど、「はぐれるから」と俺は須藤の手を引いた。須藤も素直に握り返してくれた。
途中で偶然、ヤスと魚住さんを見かけた。二人で来ていたのかもしれない。俺が黙ってニヤニヤしていると、須藤は二人の方へ行こうと手を引っ張るので、止めた。
「あの二人って、こっそり付き合ってるの?」
尋ねると須藤は「まさか」と首を振る。
「くっついたら面白そうだよねえ」
少々下世話なことを口にすると、
「周りが、やいやい言って押し付けるのってよくない」
須藤はもっともなことをぴしゃりと言うので、俺ははしゃぎ過ぎて叱られた犬のようにしょげた。
期末テストが終わり、冬休みが始まった。須藤に進路のことを尋ねると、はぐらかされたり、急に黙ったりするので全然話にならない。そんなに受験勉強がはかどらないのかと心配になる。
三学期になれば俺はすぐに推薦入試の準備をしなくてはならない。公立高校の推薦入試は希望通り、受験できることになった。須藤にそれを伝えると喜んでくれたが、お前はどうするんだ、と聞くとやっぱり曖昧な返事しかしてくれなかった。
年明けの朝一に電話があって、兄貴が東京から一時帰省するという。どうにもむさ苦しいので俺は須藤と一緒に初詣にでも行こうかと、須藤金物店を訪ねることにした。
行ってみると、ちょうど須藤の親父さんが出てきていて、店のシャッターに謹賀新年の貼り紙をしていた。俺は「明けましておめでとうございます」と頭を下げる。
「榊君のところは何日からお店開けるの?」
「うちは病院に合わせるんで四日が仕事始めみたいです」
世間話もそこそこに、親父さんはちょっと困ったような顔をしながら、
「純のことなんだけど、榊君にはあいつちゃんと話してるのかな? 高校のこと」
と、意味ありげに言うので、俺は内心びくびくしながら、
「いえ、聞いても教えてくれなくて」
打ち明けるように言った。彼氏という立場にしてはひどく情けない話だ。親父さんはため息をついて申し訳なさそうな口調で言う。
「まったく、あいつはしょうがないな。純ね、一大付属に行くことに決まったんだ。陸上のスポーツ推薦で採ってもらえることになってね――」
俺はしばらく親父さんの言う言葉が頭の中でかみ合わなくて、唖然としていた。
一大付属は甲子園には毎年出場するような、スポーツに力を入れている高校だ。県の北の外れのかなり辺鄙な場所にあって、県南部のここからじゃ移動するのに電車を乗り継いで数時間かかる。
「十月頃にはもう高校の方から打診があったらしいんだけど、あいつそういうことを少しも親に言わないんでね。かなりギリギリになって、こないだの三者面談のときかな。先生の第一声が『須藤さんはお父さんにちゃんとお話ししてますかね?』ってさ。ちょっと恥ずかしかったよ、『本人から何も聞いてません』って言うの」
「どうして、おじさんに黙ってたんですかね?」
おそるおそる聞いてみると、
「あいつ、店のことが心配だって言って、勝手に推薦蹴ってここからでも通える高校でどうにかするつもりだったみたいで。店なんて気にしないで、集中して陸上やらせてやりたいんだ。純も本当はそうしたいだろうに、痩せ我慢するんだよ」
ため息混じりにそう言うのだった。
昔から須藤は親父さんと二人暮らしであることを気に掛けていて、たまに「父さん、オレがいないと何もできないから」と言う。俺は「親父さんだっていい大人なんだからそんなことないだろう」と思っているのだが、一度も口にしたことはなかった。須藤はそういうことを喋るとき、不安よりもむしろ誇らしげに言うのだ。
「須藤は、陸上続けるのに一大付属に行きたいって言ったんですか?」
すがりつくようにそんなことを問いただしている俺を気の毒に思ったのか、親父さんは質問に頷いた後で「でも、おじさんが強く勧めたんだよ」とか、「あいつは悩んでることがあってもなかなか人に言わないたちなんだ」とか、「勉強ができないのに一大付属なら御の字だから」とフォローする。
俺はがっくりきて、表情をごまかす気力もなかった。入学するなら須藤は寮に入らなければならないのだ。
「今、純、飯作ってるけど食べていく? それから初詣に行っても遅かないだろう。車出すから、榊君の合格祈願に護国神社行くか」
俺に気を遣って誘ってくれているのはありがたいのだが、今須藤と顔を合わせるのは無理だ。俺は親父さんに、
「ありがとうございます、でも今日は帰ります。僕がここに来たこと、須藤には言わないで下さい。推薦のことを僕が知ってるってことも、伏せておいてもらえませんか。本人の口からちゃんと聞けるようになるまでは」
何とか絞り出すように言うと了解したようで頷いてくれた。
「榊君は純のことをよく分かってくれてるし、しっかりしてるから、安心して任せてるんだ。それに純も榊君のこと本当、頼りにしてるんだよ。それは間違いないから」
帰り際、親父さんから念を押すようにそう言われたが、今は少しも心に浸透しない。
家に帰ると両親は初詣に出かける準備をしている。しつこく誘われたが、「頭が痛い」とか何とか言って、自分の部屋に閉じこもり布団を被った。何で正月早々こんな酷い目に遭わなきゃいけないんだ、八百万も神様がいて誰も俺に味方してくれないんだな、と俺は布団の中で丸くなった。
須藤が大事なことを話してくれなかったのは何故だろう。他の子に渡したくないくらいには好かれていると思っていたのだが、自信がなくなる。
俺だって須藤には陸上の才能を伸ばしてほしいと思っているし、相談されれば一大付属への入学を勧めるつもりだった。
それを見越して俺には何も言わず、俺と離れたくないから地元の高校を選ぼうとしたんじゃないだろうか。などと自分に都合のいい理由を思いついたが、そうではないことは分かっている。むなしくなるだけなのでそれ以上考えるのはやめた。
独りで生きていくのは怖い、死ぬのも怖い、と思っている心の緊張を和らげてくれるものが家族だとして、その構成人数が少ないってのは遊びがない。須藤は親父さんとたった二人でバランスを取っている危なっかしさに恐怖しているのかもしれない。
どうすることもできないのが明らかなので須藤は俺に何も言わない、というのは理屈では確かに分かるのだが。どうにもならなくたって、一言でもいいから教えて欲しい、憤っている恋人の心を静めて欲しいと思う。
進路のことは、須藤にとってまず家族の問題なのだろうが、俺にとっては俺と須藤二人のこれからのことだ。それを打ちやったまま平気な顔をされる辛さをあいつは分かっていない。
俺は眠ってしまっていたらしく、東京から帰ってきた兄貴が部屋の中でごそごそとやっている音で目が覚めた。
「敦司、お前こんな簡単なところに隠しとくなよ」
布団から顔だけ出すと、兄貴は俺の机の一番下の引き出しをすっぽり抜いて、その奥の空間に隠してあるエロ本を出して、パラパラとめくっていた。
「やめろよ、人のもん勝手に出すなよ」
「これは俺が恵んでやったんだろうが。お前は兄にもっと感謝すべき」
兄貴は帰省する度に読み飽きたエロ本を押しつけていく。いつも人知れず帰ってきては、俺の机の上に堂々と置いていくので、善意よりむしろ嫌がらせに近い。外ではインテリぶっているくせに。
「思春期の童貞君のためにお年玉を持って帰って来てやったっつうのに、昼過ぎても寝てやがるし、出てもこねえし、お前はホンっトに――」
「お年玉ったって、どうせまたエロ本だろうが。それに俺、童貞じゃないですから」
言い返すと、兄貴は「あぁ?」と声を裏返した。そして大股でこっちへ近づいてきて、丸くなっている俺を二回蹴った。
「中坊のクソガキの分際で生意気な。テメー俺はついこないだまでなあ――」
「もう、出てけよ。うるせーなー」
「お前だけの部屋じゃねーんだよ、ハゲ。さっさと布団上げろや、このボケ」
元は二人で使っていた部屋なので、兄貴がいる間は一日中顔を突き合わせていなくちゃならない。げんなりした。俺は布団から這い出て、それを乱雑に畳んで、机のそばに散らかっている雑誌類を引き出しの奥へ放り投げて、引き出しは元に戻す、という動作を不機嫌にだらだらとやった。
「敦司、お前なに彼女とかいんの?」
この質問のタイミングの悪さになんとも腹が立つ。
「いたら悪いかよ」
「うまくいってんの?」
そんなことを尋ねるので、睨みつけて、
「うまくいってようが、なかろうが兄貴にはカンケーないだろ」
と言い放つと、
「そんな怖い顔してると嫌われるぞー」
などと言って茶化す。俺は呆れた。
「兄貴みたいにいつもヘラヘラしてるよかマシ」
「バーカ、外ではちゃんと猫かぶってるよ」
「猫をかぶるの意味、違うんじゃないの?」
兄貴はニヤニヤする。俺はふと気になって聞いてみた。
「兄貴、卒業したらどうすんの? 就職向こうですんの?」
「いや、院に進学。まだ国家試験もあるしな。就職はまあ、向こうの製薬の研究職かなー」
「金のかかるこって」
「いざとなったら家業継ぐつもりだから、いいだろこんくらい。投資してもらってんだよ、親に」
希望通り就職できたとして数十年後、製薬会社の研究なんてたいそうな仕事を辞めて、ひなびた商店街の薬局など継ぐ気があるとは思えない。
父は地元企業のサラリーマン、母は薬局経営。親に進路のことを相談すると、「二馬力だから台所事情は心配しなくていいよ、私立でもどこでも好きなところに行きなさい」と言われる。兄貴は理科大生で一応将来は薬局を継ぐなどと言っている。俺は俺の好きなようにさせてもらえそうだ。レールはないが縛りもない。
「俺がいなくても普通に店は続いてくんだよな。そういうもんか……」
「おー、俺はいらない子なんだ、って中二病真っ盛りだな。まあ、いじけんなよ」
「いじけてるわけじゃないよ」
俺自身、良くも悪くも両親に過大な期待を掛けられているわけじゃない。この自由度の高さがちょっとだけ忌々しい。俺みたいな奴には須藤が親父さんと二人きりで生活していることについて、真に理解できそうもなかった。
三日になると、兄貴はバイトがあるからと言って慌ただしく東京へ戻っていった。それから三学期が始まるまでの間、俺はずっと家で伏せっていた。須藤から電話があったが、俺は風邪をひいたということにして、うつるから見舞いにも来るなと言っておいた。須藤が俺についている嘘に比べればかわいいものだ。
外に出ないので髭を伸ばし放題にしていると、母に「小汚いから早く剃れ」と小言を言われる。父は「まとまった休みがあると、その間どこまで伸ばせるか挑戦したくなる気持ちは分かる」と言って笑った。
鏡を見ると、すごく情けない顔をしている。老けた男の顔にはならない。頼りない俺のままだった。
三学期の始業式の日、須藤は俺のところへ一番にやってきて、
「風邪大丈夫? 電話の声が辛そうだったから心配してたんだ」
と言う。電話口で声色を変えて病人のフリをするなんてチョロい、と考えていた俺も、面と向かってこう言われるとさすがに申し訳なくなった。
どうして大事なことを俺に話してくれないの、と尋ねたい気持ちをぐっと抑えていると、他に話したいことが見つからないので参った。本当は馴れ合いたいのに、噛み合わなくてギスギスする。
いつまで黙っているつもりだろう。ギリギリまで何も言わないで、卒業と同時に別れ話でも切り出されるんじゃないだろうか、と恐ろしいことを考える。それを思うと、むしろ進路の話は鬼門だ。俺はますます口数が少なくなっていった。須藤は気にせずくっついてくる。
二人きりでいると息が詰まるので、昼休憩や帰りはよく他の奴らを誘った。部活終わりが重なるので、ヤスや魚住さんと俺と須藤の四人で途中まで一緒に帰ることもあった。
他人を交えれば、また違った空気になるのでありがたい。須藤も俺も、クラスの奴らの中にいればまだ自然と打ち解けた気持ちになれた。
放課後、俺が教室に戻ってくるとヤスは「おーそーいー」と口を尖らせた。俺は進路指導室で面接の練習をしていたのが長引いたのだ。
窓際のカーテンの内側で、ヤスはさっきまでおそらく外を見ていたんだろう。窓を開けているので、吹奏楽部のパート練習のバラバラな音階が教室に入り込んでくる。
「この間、アンタの後輩からCDを借りたわ」
と、ヤスが言った。俺は窓枠に胸を押しつけてもたれた。
「後輩って、誰?」
「都さん」
「あー」
いつの間に仲良くなってんの? と不思議に思う俺をよそに、ヤスはカバンからCDを取り出してみせる。
「ぼくが前、文化祭の時にリクエストしたバンドの。都さんが他のも持ってるっていうから借りたのよ」
ヤスはCDのケースをひらひらとさせた。
「今日、返しに放送室へ行ったんだけど部活やってなかったわ。都さんのクラスも分かんないし」
「俺が返しとこうか?」
そう言うと、ヤスは首を横に振るので「都は二−二だよ。あと活動日は月木金」と教えた。
都は俺なんかよりもずっと音楽に詳しい。家に置いておくと勝手に捨てられると言って、部室にコツコツと音楽雑誌を貯め込んでいる。中一の頃からギターを続けているというヤスとも気が合うのだろう。ディープな趣味の話のできる人を見つけたんだな、そういうのってちょっと羨ましいな、と俺は素直に思うのだった。
ふと窓の外に目をやると、譜面台とクラリネットを抱えた魚住さんが練習から引き揚げてくるのが見えた。ヤスは喋るのをやめてじっとそちらを見ているので、俺もそうした。
辺りは薄暗く、日陰と日なたの境界はもうほとんどにじんでしまって分からない。日の暮れた後の学校には昼間とは全く違う、人を感傷的にさせる空気があった。コマ送りのように明度が落ちていく。しかし、ダイヤルを左に回しても戻れないのだ。
魚住さんの後ろで同じくクラリネットを抱えている女子がいる。久我山さんだった。魚住さんと仲良さげに話しているのが見えて、俺は少しホッとした。そんな自分が、何だか自分に酔っているような気がして気持ちわりいな、とも思った。
その後、須藤と魚住さんも合流して四人で下足場を出る。ヤスが階段の手摺をすべり下りて、須藤もそれに続いた。俺はどんくさいのが分かっているのであんな真似はしない。魚住さんは控えめに笑っている。
校門を出てしばらく歩いていると、ヤスが突然先に駆け出して、
「ちょっと、こっち」
と手招きするので俺たちはついて行った。学校の敷地の隣にある小さなプレハブの陰にママチャリが停めてある。
「今日は自転車なのよ」
威張るような格好をして、ヤスはサドルをぱんぱんと叩いた。うちの学校では自転車での通学は禁止されている。生徒会役員のくせに校則を守る気は全然ないらしい。夏はいつもシャツの裾を出しているし、今も学ランの第一ボタンを開けて、下に着ているパーカーのフードを襟のところから飛び出させている。
ヤスはスタンドを蹴り上げて男乗りでひらりと跨った。俺が、
「二ケツしようぜ。ヤスが漕ぐ人で」
などとふざけて荷台に掴まると、
「榊みたいなでかいの乗せて漕げるわけないでしょ」
と押しのけられた。
「ヤスが非力なんだろ」
俺は茶化す。すると須藤が隣で
「じゃあ、オレが乗るー」
と手を挙げた。
「須藤は走った方が速いでしょ」
まったくヤスの言うとおりだ。須藤は一キロくらいならそこらの女子の50メートル全力疾走と変わらない速さで走り続けることができる。
「魚住、乗れば」
ヤスは魚住さんに向かって、顎でくいっと合図した。
「いいの?」
「まあ軽そうだし、いいわよ」
「軽くないんだよ」
そう言いながらも魚住さんは荷台に行儀よく横座りして、膝の上に鞄を置いた。
「魚住さん、つかまってないと落ちるよ」
俺が促すと、申し訳なさそうにヤスの腰へ腕を回した。
「大丈夫?」
魚住さんがヤスに尋ねる。
「魚住は振り落とされないようにだけ気を付けてればいいのよ」
ヤスは魚住さんの鞄を取り上げて、ヤスの鞄と一緒にカゴへ押し込んだ。
俺たちは四人で川べりの道まで出て、そこで手を振って別れた。自転車のライトがその道を海の方角へ走っていく。
「魚住さんちって向こうの方だけどさ、ヤスんちあっちじゃないよな」
俺は分かりきったことを須藤に尋ねた。須藤は、はっとした顔をして、
「優子のこと好きなのかな?」
と言う。今更かよ、と可笑しくなった。
数日後、学校のない土曜日の昼間を一人でもてあましていると電話が鳴った。須藤からだった。
今日は父がいるので家で会うのは何となく憚られる。須藤が外で会おうと言うので、同意した。俺は何か決定的なことを言い渡されるんじゃないかと、少なからずびびっている。
繁華街へ出るのとは逆方向の路面電車に乗り込んだ。特に行くあてはないが、生活圏からは離れたかったのだ。
「こうやって出かけんの、久しぶりだねー」
須藤が笑いかけるので、俺は閉口した。どうしてそんなに楽しそうにしていられるのか、気がしれない。須藤は他人の気持ちに少し疎いところがある。それをかわいいと思う気持ちは、今は憤る感情の後ろで息をひそめていた。
終点の港で電車を降りる。フェリー乗り場の他には特に何もない場所だ。空は曇っていて、風も強くて寒い。どうしてこんなところまで来たんだろう、と今になって後悔した。こんな寂しい場所で寂しい話をしたら、俺泣くかも、と真剣に考えた。
須藤がさっさと波打ち際まで歩いて行くので追いかける。
「最近ちょっと疲れてるみたいだったからさー」
須藤は縁のギリギリのところを歩きながら叫んだ。
「榊、面接の練習とか、小論文の練習とか頑張ってるだろ?」
「別に頑張ってはいないけど……」
推薦入試の件で放課後残ってやっていることを指しているらしい。息抜きさせないと、と思って今日は誘ったとのこと。
デルタの裾は埋立地で、その上に自動車工場が乗っかっている。内海は狭くて、島ばかり。水平線は見えない。左を向くと自動車メーカーが船で輸出するためのふ頭がある。水面は鉛の色をしていた。第二次産業の海は情緒に欠ける。
「全っ然、きれいじゃねえな」
「こういう鈍い海もいいと思うよ。オレ、嫌いじゃない」
ぺたっと岸壁に腰掛けて、須藤は足の下の飛沫を見ていた。自分の進路のことを俺に話すつもりはなさそうだ。
「でも、この辺の海は泳ぐ場所、ないよねえ」
と、須藤は足をブラブラさせる。
「どこも工場ばっかだから」
俺はそっけなく答えた。
「オレ、小さい頃父さんに一回だけ海へ泳ぎに連れて行ってもらったんだ」
「どの辺?」
「どこだったかな、よく覚えてないけど、島の方かな。海って浜は人がうじゃうじゃいるけど、沖まで泳いで行くと周りに誰もいなくなるから楽しいよね。浮輪なしでここまで来れるんだって、ちょっとした優越感」
「危ないなあ。お前、それ小学生の頃だろ?」
「うん。一人ぼっちで遭難したみたいになってたら、父さんが慌ててこっちに泳いで来て、めちゃくちゃ怒られたけど」
須藤はそう言って笑った。
「お前、一人で放っとくとすぐ死にそうだな」
「オレ、そんなに間抜けじゃないよ。榊じゃあるまいしー」
「須藤はむこうみずなんだよ。俺はそもそも自分から一人になろうとは思わねえもん。自分が間抜けだって自覚あるからさ」
答えると、須藤は「なにそれ」と笑って、
「でも本当、楽しかったんだよねえ」
汚い海を眺めながら、夢を見るような顔をして言う。
「また行きたい。ねえ榊、今度の夏はどっか泳ぎに行こうよ。海じゃなくても、市民プールでもいいから」
今度の夏、なんて軽く言ってのけた。その約束、本当に守るつもりあんのかよ、と嫌な気持ちが湧きあがってくる。
「なあ須藤、俺に言わなきゃいけないことあるんじゃないの?」
「え?」
「俺、知ってるから。お前がスポーツ推薦で一大付属行くってこと」
「あ……」
「陸上をもっと本格的にやるなら、こっちの私立よりいいんだろうなって俺は思ってるし、応援するけどさ。どうして何も言ってくれなかったの? なんで?」
「何で知ってるの?」
須藤は俺を見上げた。
「質問に質問で返すなよ」
「でも」
一旦口に出すと、後は咎める口調でまくし立てるのを、俺は止められない。
「俺に言わずに卒業しようとでも思ってた? そんで自然消滅させたかったの?」
「そんなことない」
「じゃあどういうつもりだよ。俺たち付き合ってるんだから、大事なことだろ。それともそんなに頼りないかな、俺」
須藤は首を横に振ったきり、黙った。
波紋は岸壁にどんどん波をぶつけていた。フェリーが港へ帰ってくる。
「離れたくないから行くなとか、そんなガキみたいなことを言うつもりないよ。ただ、悩んでるなら相談くらいして欲しかったし、決めたなら決めたで、教えて欲しかったよ」
「うん……」
「親父さんから聞いたんだ。付き合ってる人の大事なことを、人づてに聞くってのはなかなか傷つくもんだよ」
「ごめん」
「別れるつもりなの?」
俺はできるだけ平気な顔と声で言った。須藤はパッと顔を上げると、
「別れたくない」
と言う。しかし、こうも続ける。
「誰にも言わずに一人で考えたかったんだ。入学が決まっても、ずっともやもやしてて、榊にも言えなかった。それは申し訳ないって思ってるよ」
「俺じゃ力にはなんないかもしれないけど、吐き出せば少しは気も楽になるだろ」
「違うよ、そうじゃなくて……誰にも頼らずにいたかったの」
「どうしてそう思うの?」
尋ねると、
「付き合ってるからって、何でもかんでも報告して、榊にオレの全部を把握してもらおうとするのは違うって思ったの。一人で考えたり、行動したりする力がなくなりそうな気がするから。オレ、一人でも大丈夫になりたいんだ。だから榊はオレを助けないでほしい。誰にも助けられたくない」
須藤は立ち上がって、ジーンズの尻についた砂を払った。
「助けるとか、そんなおおげさなことかな? ただ俺は、須藤が悩んでたり、辛いって思うときには自由に何でも言いたいこと言ってくれていいよ、相談にも乗るよって、それだけなんだけど」
「オレのこと、甘やかさなくていいよ」
「甘やかしてるっていうか、ただ俺が好きな人に構いたいだけだよ。それにほら、須藤は女の子だから」
「オンナオンナって、言わないで」
苛ついているみたいだったので、俺はもう何も言わなかった。
女らしくした方がいいのかと心配したり、そうかと思えば女の子扱いされるのを嫌がったりする。俺はため息をついた。女の子ってさっぱり分からない。
「弱っちい女の子が好きなら、そういう子探せばいいだろ。甘えたり、頼ったりしてくれる子のところに行けばいいだろ」
須藤は強い口調になる。
「じゃあ須藤は他人の優しさに唾を吐くみたいに生きていればいいよ。一生、そうしてればいいじゃん」
「他人の優しさって……榊は他人に優しくしてるつもりでおせっかい焼きしてるだけだろ。優しくしてあげる自分に酔ってるんだよ。オレのことなんて分かってないくせに」
お前が分からせようとしないんだろう、と言い返そうと思ったが喧嘩になるだけなので飲みこんだ。
こんなふうに思われていたなんて、心外だった。須藤が触られたくないと思う部分には触らないように気を配りつつ、女の子だからそれなりに優しく接する。たまに弱さを見せてくれる時は、いち早く気付いて言葉をかけて撫でてあげる。
俺は自分の好きな人と仲良くやっていくために結構気を遣っているのに、須藤はありのまま過ぎて、勝手だ。少しは俺に好かれようとしてほしい。ただ好きだ好きだって言うだけじゃ、長いことやっていけないだろう。多少なりとも相手に合わせて自分の形を変えなきゃ、他人同士一緒にいられない。
じっと黙っていると、須藤は「もう帰ろう」と呟いて、くるっと背中を向けた。
一面鼠色の雲が、沖の方では海面と触れているように見えるほど低い。きっと残りのハミガキ粉をチューブからひり出すみたいに、海の向こうから誰かが指で押さえているのだ。港もフェリーも俺たちも、みんな閉じ合ってぷちっと潰されてしまう。
須藤といい雰囲気なら、この冷たい空気の中で体をくっつけたいと思うだろうに。今はひたすら暗くて嫌な感じだった。
帰りの電車を並んで待つ。
「俺、もう須藤と喧嘩するの嫌なんだ」
怒って感情をぶちまけてしまうのは簡単だけれど、俺はそうしない。感情的に自分の主張ばかり通そうとすると、思わぬ方向に話が逸れるに決まっている。
「榊は突っかかってこないじゃん。体育祭のときはオレが一人でブチ切れてるだけで、喧嘩じゃなかったよ。オレだけバカみたいだった。だからもう、あんなふうにしない」
「そっか」
「女だからってすぐヒスったり、子供みたいに喚いたりしないって決めたから」
努めて冷静な声を出している、といったふうに須藤は言い切った。
須藤が失敗から学んだのは自分のことだけなんだろうな、と俺の気持ちは更に萎えた。結局、須藤は自分を他人にどういうふうに見せたいかしか考えていないし、そこには俺に対する思いやりなんて、全然ないのだ。俺は須藤がそれほどクールではないことをもう知っている。それなのに、今さら俺の前で何を格好つける必要があるのだろう。
ギリギリと鉄の削れる音を上げて、電車が滑り込んでくる。
放課後、まだ部員の集まっていない放送室で俺は一人、ミキサーテーブルにうつぶせてFMを聴いている。
放送部は引退というはっきりとした線引きがないので、俺は部活に出続けていた。しかし学校行事がなければ、日々の放送以外、特に活動はない。放送室に集まって、談笑して、適当に帰るといった体たらくだ。
流れてきたはやりの歌の歌詞が俺の神経を逆なでする。「あなたはひとりじゃない」とか、そんなことは分かっているから、わざわざ歌にして叫ばなくていい。
嫌でも人の中で生きることからは逃げられない。だから、ひとりじゃないのと安心している場合ではなくて、いかに人の中でうまくやっていくかを考えなければ。
そんなようなことを思いながら机に顔を伏せたままでいると、さっき教室のストーブに給油したとき手に付いた灯油の臭いで、車酔いみたように頭がぐらぐらした。
小学生の頃、何かにつけて「女の子には優しくしなさい」と母からよく言われたものだった。急に体が大きく、力も強くなりつつあった十二歳の息子が、男友達のノリで女の子をどついたりしないようにたしなめていたのだろうと思う。その頃の俺は母の言葉を全くフィジカルな意味だけだと理解していたので、女の子に対して重いものは持ってあげたり、できないと言われることは大体何でもやってあげたりした。それで俺の幼い庇護欲らしきものは満たされていた。
ところで女の子というものは結構めんどくさい。すぐ泣くし、すぐ火の点いたように怒るし、話を聞かないとふてくされる。不利になると、女であることを持ち出して束になってかかってくる。それでも男は女に優しくして、守ってやらないといけないらしい。母の洗脳の成果なのか、俺はいちいち女子と張り合わず、理不尽だけれどそういうものなのだ、と早い段階で諦めることができたのだと思う。それがフェミニズムの皮を被ったただの怠け癖だったとしても、喧嘩になるよりましだ。
俺は須藤の考えに寄り添ってやることにしよう。孤独でいようとするあいつを尊重することにする。今の時期、他に考えるべきことは山ほどあるだろうに、女のことで頭をいっぱいにするのもばかばかしい。いつまでも腹を立てるのはやめる。
しばらくして、都が放送室へ入って来た。瞼を腕に強く押し付けていたせいで、俺の視界はぼやけている。目を細めて見ると、都はいつもの黒いセルフレームのメガネをかけていない。
「メガネは?」
と聞くと、
「メガネはありません」
都はしれっと答えた。メガネは相当度がきつかったので、裸眼で教室から放送室まで来たわけではなかろう。
「え、コンタクト?」
尋ねると都は頷く。
「何で?」
「メガネが煩わしくなったので」
「ふうん。何、心境の変化?」
聞いてみても、都はそれに答えない。
「フレームのない世界は新鮮です」
とだけ、うそぶく。
「世界はフレームだらけだよ」
そう返すと、
「何ですか、それ。春樹かぶれか何かですか」
呆れた調子でつっこまれたので、俺は恥ずかしくなってミキサーに向きなおった。
ラジオのボリュームをにわかに上げる。都はパイプ椅子をがちゃがちゃと開いて座り、
「世界はフレームだらけだよ」
と芝居染みた口調で散々繰り返した後、
「あんまり使いどころがないですね」
とニヤついた。
都の変身ぶりに、実は何となく心当たりがある。以前、部活のない日に、都が放送室の前でヤスと談笑しているのをたまたま見かけたことがあったのだ。しかし、何も見なかったことにしよう、と俺は声もかけずに退散した。話の内容までは聞こえなかったが、都がヤスの前でしなを作っているのは、ぱっと見て丸わかりだったからである。
「目にレンズ入れるのって、痛そうだな」
「慣れるまでは痛いですよ。今も痛いです。ハードなんで」
「俺、自分の眼球とか、触れない。怖くて」
「直に触ってるわけじゃないですよ。指にひっつけて、そうっと入れるんです」
「あんなうっすいの、直に触ってるも同然だよ」
目というものを強く意識すると、まばたきが止まらなくなるのは恐怖からだろうか。
都はポケットから目薬らしきを出して、口半開きのマヌケな顔で点眼している。
「目薬ってそんなにさしまくって大丈夫なの?」
「目薬じゃないんで、生理食塩水なんで大丈夫です」
「あ、そう。そういえば、そろそろ俺、引き継ぎとかやんなきゃいけないかな?」
話を変えてそう尋ねると、
「いいんじゃないですかね、やんなくて。もう大体部長の仕事って私がやってるし、部長会議は適当に出て、話聞くだけでしょう」
ハンカチで目を押さえながら、都はだるそうに喋る。
「都一人に負担が行かないように、もうちょっと色々やりくりしときゃ良かったんだけど……ごめん」
「そんなこと気にしてたらキリないですよ。残った人間に丸投げしときゃいいんです」
「そういうわけにもいかないでしょ」
「あっちもこっちも気にしまくってたら、禿げますよ。部長はそうやってバランス取るのにしんどくならないんですか? 私は部長みたいに調整役のリーダーにはなれないですので、独裁タイプとして頑張ります」
都は膝に手を置いてぴしっと背を伸ばし、したり顔をする。
「こえーな」
俺は笑ってしまった。
「結局、頼みやすい奴に任せることになるから、悪いなって思ってんだけどね」
「何もやらない人が頼みやすい人にぽんぽん仕事振ってたらムカつきますけど、部長は仕事抱え込んじゃう人だから、何かかわいそうになってこっちも引き受けちゃうんですよね」
「面目ない」
二月のはじめ、俺は兄貴のコートを引っ張り出して、それを学ランの上に羽織って出かけた。コートを着るのは本来校則違反だが、行先は中学校ではないから、正しく校則をやぶる。志望校の推薦入試を受けるために、通りを歩いている。
夜通し降った雪が、商店街のアーチ型のアーケードの上に積もっていた。光の差し込まないアーケードの中は朝なのに、夜だ。頭の中は、したことのない時差ぼけのよう。
そうやって朝からぼんやりしていたためか、それとも心配ごとのせいなのか、翌日学校で試験内容の調査書を書かされたのだが、面接で何を喋ったのかはっきりと思い出せない。白紙のまま唸っていると「緊張して覚えてないってことは、ままあることだ」と先生は笑っていたが、そうではない。
緊張なんてしていなかったし、是が非でもこの高校に行きたい、などと奮起して試験に臨んだわけではなかった。しかし、この時期にこんなこと他人に言えたものではない。結局、俺は苦笑いしながら白紙の調査書を提出するのだった。
試験から一週間ほど経った。合否の通知は進路指導室に個別に呼び出されて受けることになっている。俺は合格していた。
それから進路指導室を出て渡り廊下をふらふらと歩いているところで、遠くに久我山さんを見つけた。校内で久我山さんを見かけることは度々ある。告白を断って、それきりになっていることがずっと心に引っ掛かっているから、目につくのだ。何事もなかったようにはいかないだろうけれど、それでも彼女とまた話したいと思う。しかし、人と一緒にいるときに声をかけることはためらわれていた。
彼女は特別教室棟入口のひさしの下で、クラリネットのパート練習を一人でやっていた。三年生の引退した後、一緒に練習する人はいないのだろうか。
「ここ、寒いでしょ。吹きっさらしだから」
近付いていって声をかけると、久我山さんはびっくりした顔で俺を見て、また譜面に視線を落とした。しゃべってはくれないのかな、と気を揉んでいると、久我山さんは「ごめんなさい」と小さな声で謝る。
「え?」
「あの、部長にご迷惑かけてしまって、体育祭の時の……」
「久我山さんが謝ることないよ」
クリップで譜面台に留めてある楽譜の端が、強風で折れ曲がる。楽譜には所々しわが寄っている。俺は風上に移動して言った。
「それより、吹奏楽部に入るとは思わなかった。前に、音楽あんまり聴かないって言ってたから。クラシックとかは好きなの? 俺はほとんど知らないんだけど」
「部長とか都先輩が色々勧めてくれてたので、聴いてみたんです、あれから。それで、音楽、いいなって、思ったので……」
久我山さんは俯き加減でもそもそと喋るので、俺は言葉を聞き取ることに集中する。
「あの、歌がないのが好きなんです。あ、クラシックでも眠くなるような曲は苦手で、こう、いろんな楽器の音がたくさん重なって盛り上がる曲が良くて」
「おー、そうなんだ。クラシックだと『ボレロ』とか、カッコいいよねえ」
「あ、好きです。あと、『惑星』の『木星』とか」
「こう、バーンっとしてる曲はいいよな。体育祭の時に曲使ったじゃん。あの中盤の厳かなところじゃなくて、最初と最後のガーッと盛り上がってくところがさ、テンション上がるよね」
俺の身振り手振りや擬音が可笑しかったらしく、くるっと明るい表情になって、久我山さんは笑った。
「部活はどう、楽しくやれてる?」
俺はできるだけ軽い感じで聞いてみた。吹奏楽部は女子ばかりで上下関係も厳しそうだし、コンサートマスターのポジション争いや、曲のソロを誰がやるかで揉めることもあると聞く。それは女軍隊さながらで恐ろしい。
久我山さんは、
「はい、楽しいです」
と控えめに頷いた後、
「あっ、放送部も、楽しかったですけど」
と、つっかえながら言う。楽しかったけれど、辞めさせてしまったのは俺だ。申し訳ない気持ちになった。
「今は何を練習してるの?」
尋ねると、
「卒業式の入場曲で『威風堂々』をやるので、それを」
楽譜を最初のページまでめくりながら答える。
「卒業式かあ……そうか、もうすぐだもんね。卒業しちゃうよ、俺」
俺はそう言ってへらへらしているが、久我山さんはしばらくの間、黙っていた。この態度が引っ込み思案からくるものなのか、まだ俺のことを好きだからなのかは分からない。
もてたい。先輩としても男としても、できるなら好かれていたいと思う。久我山さんにもう一度好きだって言ってもらえたら、この沈んだ気持ちは簡単に上昇するだろう。付き合うつもりもないのにそんな薄情なことを考えているのは、自分に自信がないからで、その自信は他人から与えてもらわなければ、すぐに涸れてしまうようなものだ。
自ずと湧きおこる自尊心、そんな素晴らしいものは俺にはないので。
教室の真ん中の列、一番後ろの席でストーブに焙られながら授業を受けている。この時期の授業はもうほとんどが消化試合のようだ。教科によって自習だったり、ビデオを見せられたり、先生が人生訓を五十分しゃべり倒したりなどしていた。クラスの中で既に進路の決まっている生徒は多くないので、もっとピリピリした雰囲気になるのではないかと推薦組の俺は危ぶんでいたが、そんなものはちっとも感じない。もしかするとこんな時期だからこそ、リラックスした雰囲気を作ることに学校の先生は心を砕いているのかもしれない。
そんな日の朝、ホームルームが終わると、魚住さんが俺の席までやってきた。
「ヤス君がなんで休んでるか、榊君、何か聞いてないかな?」
ヤスは一昨日から三日間欠席している。一昨日は受験のための公欠なのではと思っていたが、三日もかかるわけはない。
「どういうこと?」
「三日も休むなんて、何かあったんじゃないかと思って。入試が終わった後だから、心配で」
魚住さんによると、ヤスは今週の日曜に高専の入試があったらしい。その翌日の月曜には学校へ来ていた。火曜からだ。ヤスが学校を休んでいるのは。
「試験がうまくいかなくて気が滅入ってるんじゃないかとか、そういうこと?」
尋ねると、魚住さんは「とか……」と、他の原因も示唆しながら頷く。
仮にそうだったとしてもヤスは人に言わないと思う。失敗談を面白おかしく話してはくれるが、真に辛いとか悲しいとか、そういうことをヤスは口にしない。日曜に試験があったことを俺は知らなかったのだし、それを魚住さんには話しているってことは、彼女の方がヤスにとっては近しいのだろう。
「俺は何も聞いてないけど。二学期にも風邪こじらせて休んでたし、また体調崩したんじゃないかな」
「大丈夫かなあ」
「見舞いに行ってみたら?」
二人が今どういうことになっているのか知らないが、妙な使命感から、水を向けてみると、
「うーん、『いちいち来なくていいわよ、うっとうしい』とか言われそうだけどね」
そうヤスの口ぶりを真似て、魚住さんはおどけてみせた。
その翌日も、やはりヤスは学校に来なかった。俺も気になってきたので先生に聞いてみると、体調を崩しているとのこと。いきなり押しかけていいものかどうか迷ったが、家で寝ているのなら様子を見てすぐ帰ればいいし、と俺は一旦帰って着替えてから、ヤスの家へ自転車を駆った。
川沿いの高層マンション、二十六階にヤスの家はある。駐輪場へ自転車を突っ込んでから、入口へ回った。共用玄関はやたらと広く、天井が高くて、つるつるの大理石の壁に間接照明が点々と施されていた。オートロックを開けてもらってから、エレベーターで上がる。
訪ねてみると、ヤスは細身のジーンズとTシャツの上に黒のおしゃれっぽいジャージを羽織っている、およそ病人っぽくない出で立ちで出てきた。
「来ちゃった」
俺がふざけると、
「どうぞ、上がって」
笑って部屋へ案内してくれる。
ヤスの部屋は、もともと二人部屋であった俺の部屋の更に二倍の広さはあるだろう。華奢な白木の勉強机と、シングルではおそらくなさそうな、でかいベッドが対角線に置かれていて、壁一面は作り付けの棚になっている。そこには本やCDが積み上がっていた。
「これ、お菓子と飲み物」
俺はぱんぱんになっているビニール袋を差し出した。
「なんでリポDがこんなにあるの?」
「親が持って行けって」
「ありがとう」
ヤスがベッドの脇までキャスター付きの椅子を転がしてきてくれたので、腰掛ける。ヤスはベッドに腰を下ろした。
「よかった、元気そうじゃん」
「元気よ。だって病欠じゃないもの」
じゃあずる休みか、と訝ったがそうではないらしい。出席停止なのだとヤスは言う。理由を尋ねてみると、
「学校で、水島を殴ったの。それでよ」
と低い声で言った。驚愕した。
水島、というのは数学の水島先生のことだ。二十代後半の若い男の先生で、三年生のクラス担任も持っている。ふわふわして頼りない感じのする人だが、生徒、特に女子には人気があるらしく、休憩時間や放課後に女子が絡みついているのをよく見かける。しかし、授業態度の悪い生徒でも、ガラの悪い男子に対してだけ強く注意しないので、俺はあまりこの先生を好きではなかった。
ヤスも水島先生をひどく嫌っていた。特に最近では授業で当てられても絶対に答えようとせずに、「分かりません」の一点張りなのだ。数学は誰よりも得意で、テストの点もクラス内トップであったヤスだから、その態度が反抗であることは誰の目にも明らかだった。今週の数学の授業がずっと水島先生不在の自習だったことを考えると、学校に出てくるのが困難なほど殴りつけたのだろうか。
「『殴った』って、おっかないな。なんでそんなことになったの?」
「腹が立ったから……」
「なんか嫌なこと言われた?」
「いろいろあるのよ……」
どうせ先生たちから同じようなことを詰問されて辟易しているだろうと想像して、俺はもう黙って頷くだけにした。
「いつから学校に出てこられるの?」
「来週は行くわ」
「そう、良かった。やっぱり理由が理由だけに、もっちーも『体調不良で欠席』としか言わなかったよ。先生たちだけなんだろ? 知ってるのは」
「と、思うけど。他の生徒はいなかったわ」
「魚住さん、心配してたよ。何かあったんじゃないかって」
「魚住が? 何かって何よ?」
「いやいや、もしかして入試絡みで凹んでんじゃないかってさ」
「そう」
「魚住さんには、言っておいたら? 口の軽い人ではないし」
ヤスは首を振って、
「喧嘩を武勇伝みたいに語る奴って嫌いなの」
強い口調で言った。それはそうかもしれないけれど、先生を殴って武勇伝になるような喧嘩とは、どういうことだろう? 考えたが、分からなかったので、
「そうだな」
と同意した。
「思うんだけど、こういうのって進学先に情報提供されるのかしら。『おたくの学校への入学を希望している生徒、安原理一郎が問題行動を起こしました』って通知するのかな……?」
「うーん、どうなんだろう……。先生は何か言ってた?」
ヤスは眉間にしわを寄せて、
「聞いてないの」
首を振った。
外が暗くなり始める頃に部屋を出た。ヤスがマンションの入り口まで見送ってくれた。
自転車を引っ張り出して、跨る。風は往路よりもぐっと冷たさを増していた。夜になると空気の匂いが変わるのは、どういう理由からなのだろう。植物が光合成をやめるからか。中央大手会社の支社ビルが幾つもそびえている通りを、風を切って走る。ペダルをグングン踏む。
ブルジョアな空間から帰宅した俺は疲弊して、ダウンジャケットを脱ぎ散らかしたまま床に寝転がった。
あのヤスが暴力沙汰とは……、と俺は考えていた。もともと口は悪いが、手を出すような奴ではない。体格は小柄で、背丈は百六十センチそこそこ。それが百八十センチほどもある水島先生に向かっていっても、勝ち目はなさそうだが、よっぽど腹に据えかねる何かがあったのだろうか。
ヤスの嫌っている先生、というのは何も水島先生だけではなかった。音楽の長谷という先生のことも毛嫌いしていて、むしろ嫌いの度合いではこちらの方がひどい。
長谷先生は芸大にストレートで入学したのだそうで、「同期生には同い年の人間はほとんどいなかった」などという愚痴に見せかけた自慢話を、何かにつけて授業の話題にねじ込んでくる、いけ好かない奴だ。加えて、他人を馬鹿にしたような口調が耳に障る。クラシックを音楽ジャンルの至高と考え、それ以外の、特にロックやポップスをくだらないと思っている。四十代半ばで、髪型はきっちりした七三分けにポマードべったり。吹奏楽部の顧問をやっていて、指揮をしているときの動きは首振り人形のようで、奇妙だ。うちの中学の吹奏楽部は大会では結構いいところまでいく。部員の中にはこいつをひどく敬愛しているグループがいるらしいが、何に心酔しているのか俺には理解できない。
ヤスは一学期にこんなことを言っていた。
「一年の頃の歌のテストのときに、ぼくが初見の楽譜で歌えるのを見て、あいつ『何か楽器習ってたの?』って聞いてきたの。それで『ギターを始めたばかりです』って答えたのよ。『じゃあ弾いてみせて』ってギターを渡してくるから、弾いたの。『禁じられた遊び』を。そしたら何て言ったと思う? 『ああ、大したことないね』って、ニターっと笑って。もうね頭に来たわよ。弾けって言うから弾いたら鼻で笑うって、いったい何様なのかしらね」
腹の底からうなるような声を出していた。そういうわけで、音楽の授業でヤスは「わかりません」しか言わないし、歌も歌わない。式典で長谷先生が指揮をする校歌斉唱のときも、口を開かない。ヤスが長谷先生に対して反抗の態度を露にするようになってからというもの、音楽の成績はいつも十段階評価の“3”であるそうだ。
保身などお構いなしに、嫌いな人に敵意をむき出しにできるヤスはすごい。相手から同じだけの敵意を向けられても構わない、という覚悟があるのだ。今回の水島先生の件は相手が教師だから殴り返してこないにしたって、謹慎処分を受けることにはなったし、自身の進路について今後、どう影響が出るのか分からない。それを承知した上で、それでもヤスは殴ったのだ、と俺は考える。腹をくくったのだ。
月曜にヤスはちゃんと学校に出てきた。病み上がり、という体でいるので、俺は口を滑らせないよう神妙にしていた。そしてヤスと入れ替わるように、魚住さんが風邪で学校を休んだ。
Feb25, 2011