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〔一〕ハートが湿気て火がつかない

川が六本も流れていて、三角州が形成されている。だだっ広い沖積平野の上に、ビルがにょきにょき伸びている。この田舎の都会、坂道の少ない町に安原は生まれた。補助なしの自転車に乗れるようになってからは、それで川のほとりをいつも走りまくった。

安原の通っていた国立大附属の小学校では、学年が二つ上がるごとにクラス替えがあった。小学二年生から三年生に上がるときのクラス替えの後、出席番号順に座らされている席から、安原は教室を見渡した。みんな今後の友だち作りのために、近くの席の子に話しかけている。自分もこれをしなければいけない、ということは頭で分かっているのだが、どう声をかけたらいいのか分からず、黙って座っていた。すると突然、「ぼくは人が苦手である」という感覚が、安原の頭の中へテストの答えのように降ってきた。その瞬間である、それまで薄らぼんやりとどこまでも広がっていた景色が、急にくっきりとした像を結び、集束し始めた。この景色の中に自分がいて、自分がいるということを感じているのもまた、自分である。自分とその他が、このときくっきりと分かれるのを、安原は観測した。こうして安原理一郎の世界が出来た。

積極的に友だちを作ることはやめにしよう。その代わり、休憩時間は図書室に入り浸って、手当たり次第に本を読むことにした。読むのは何でもよかったが、自分の理解できるぎりぎりの難しさのものを、なるべく選んだ。物語を読むと、作者の頭の中に触れられる気がする。自分の頭から別の世界へニューロンが足を伸ばしていく、そんな図がイメージされるよう。世界を広げることに、安原は時間を忘れて没頭した。毎日何かしら借りて読んだので、貸出カードがすぐにいっぱいになる。すると、担任が安原の貸出カードを持ち出して、「安原君はこんなにたくさん本を読みました。みんなももっと本を読みましょう」と、クラス全員の前で言いだしたのだ。途端に安原は恥ずかしさでいっぱいになった。友だちがいないから、時間の隙間を埋めるために本を読んでいると思われているのではないか、これは称賛の皮を被った憐れみの目だ、そう考えると、教室から逃げ出したい気持ちになった。

それでも、勉強は好きだったから、学校にはきちんと休まず通った。友だちとの喋り方が分からなくなってしまっていたが、自分の意見を言わなければならない場面では、一所懸命自分の思っていることを伝えた。すると、面白がってもらえた。他人との関わり方をひとつ覚えた、と安原は嬉しくなった。だが、安原は嘘がつけない。かっこよくないものを、かっこいいね、と言えないし、腹が立ったときや、自分の意志とは違うことを言われたとき、何とも思っていない振りができず、思っていることを全部ぶちまけてしまう。たまに人に合わせて嘘をつくと、心が引き攣って、それが顔に出て緊張した表情になった。だから、誰とでも仲良くできるわけではなかった。自分が本当だと思うことだけ喋って生きていきたい。それは安原にとっての憧憬だった。

学校へ行くとき、安原にとって恐ろしく嫌なことが一つあった。通学には路線バスを使っていたのだが、その通勤時間帯のバスの中で、いつも安原の体をなまめかしく撫でてくる大人の男の手があった。安原は気味の悪さにぞっとしたが、恐怖のあまり声を出すことができなかった。ぎゅうぎゅうの車内で、ひたすら身を固くして耐えた。その手が一人ではないこともあった。股間を撫でられると、勃起してしまう。その体の反応の意味を知らない頃はまだ良かった。知ってしまうと、自分はなんて恥ずかしい奴なんだろう、と悔しくて情けなくなった。あるとき、耐えきれず途中でバスを降りた。降りた後、しばらく舗道をふらふらと歩いて、植え込みに嘔吐した。遅れて学校へ行き、腹を壊したと言って保健室で休んでいると、鳥肌が止まらない。しかし、授業を受けなければならないという使命感に襲われたので、気力を振り絞って保健室から出た。安原は痴漢に遭っていることを絶対に誰にも言わなかった。自分の世界の中に、誰にも言えないことが出来てしまった、というのは悲しい。ただ、おかまみたいにくねくねしたり、女言葉で話したりすると、少し心が落ち着くということを発見した。

小学四年生のとき、安原は母親へ、学区の公立小学校へ編入したいと懇願した。もうあのバスには乗りたくなかったのだ。しかし、猛反対された。理由を言えないので、親を説き伏せることはできなかった。同じ附属中学への受験もすることになったが、安原はそこでわざと失敗した。中学校は公立に通うことになった。

晴れて中学生になった安原は、自己紹介をするときには必ず「ヤスって呼んでください」と言うことにした。小者臭の漂っている呼び名だが、小学生の頃からのあだ名で、自分では結構気に入っていたのだ。それに、理一郎という長男坊丸出しの名前が気に入らないのもあった。安原は父親があまり好きではない。父親の名前が理だから、コピーが欲しくて父親はぼくに理一郎なんて名付けたのかしら、それはちょっと気に食わない、ぼくはぼくで、父親とは別の人間なのに。

真面目な顔をして真面目なことをしていると、近寄りがたい雰囲気を出してしまう安原だった。また、そのことに、安原自身も気付き始めていた頃だった。肉体的に強くなりたい、と思っていた安原は、入学してすぐに野球部に入部した。しかし、入部早々、練習もままならないうちから、丸坊主にして来い、なんて顧問が偉そうに言うのには呆れた。そして、誰もそれに反発しないので更にいらいらした。平成の世における全体主義に辟易してしまう。同級生が次々に丸坊主になっていく中、安原は断固として髪を切らなかった。野球をするのと頭を丸めることに何の関係があるのか、理解できなかったからだ。きっと髪型なんて本当はどうでも良くて、生徒の自由を奪って反抗の刃を削ぐため、裁量権はないと思い込ませるための決まりなのだ。二週間ほどそのまま練習に出続けていると、顧問に呼び出され、強制的にバリカンで刈られた。腹が立って顧問に捲し立てたが、そういうふうに盾突いてくる生徒には慣れているのだろうか、軽くあしらわれるだけだった。顧問に対する反抗はその後も続けたが、その分、部活動はきちんとこなした。球拾いも、掃除も、練習も、誰よりもきびきびと動いた。そうして運動場で練習をしていると、たまにそれを見学しにくる女子がいる。試合ならともかく、何が楽しくて練習を見学するのだろう、と安原は首をひねった。入部希望というわけでもあるまい。しばらくすると、今度は三年生に部室へ呼び出された。

「一年が女にキャーキャー言われてチョーシ乗ってんじゃねえよ」

と言う。最近見学に来ていた女子が多かったのはそれか、と思い当たった。このときほど安原は自分の貧弱な体格を呪ったことはなかった。体格の良い三年生四人に囲まれて、肩や腹を小突かれた。

「ちょっと言ってる意味が分からないんですけど」

安原がむっとして答えると、

「まだ分かんないんだってー」

強く胸ぐらを掴まれた。これ以上反抗的な態度に出れば殴られるのは分かっていたが、暴力に対する恐怖よりも、理不尽な人間に屈する恥の方が堪えられない。

「女の前ではチャラチャラしてるくせに、先輩の前で態度の悪い後輩は絞めないといけないんだよね」

「チャラチャラなんてしてないですし、態度も普通だと思います」

「お前、それは普通の態度じゃねえだろ」

みぞおちに一発蹴りを入れられて、安原はうずくまった。それでも、暴力によって人を従わせようとする人間に頭を下げるくらいなら、暴力によって死んだ方がましだ。何度も思いきり蹴られたが、その度に相手を睨みつけることを止めなかった。しばらく無抵抗で耐えていた安原だったが、一人から羽交い絞めにされた瞬間、言いようのない気持ちの悪さに襲われた。性的な暴力に対しての戦慄である。腹の底からせり上がってくるものがあって、安原はそれを抑えるのだが、しかしどうにもならない。羽交い絞めにされたまま胸ぐらをつかまれて、安原は三年生の手に思いきり嘔吐した。蹴られた。それからはめちゃくちゃだった。吐きながら暴れた。怯んだ三年生の顔を何度も殴り返した。体を押さえられそうになったところからは、よく覚えていない。気が付くと、顧問に引っ張られていた。自分の顔を拭うと、吐瀉物と血がべっとりと付いた。痛みは感じなかった。

その後、三年生の方からリンチを仕掛けてきたということで、安原の暴力については不問ということになった。しかし顧問からは、お前のその不遜な態度もいけない、ということを遠まわしに非難された。安原は閉口した。殴り返したことについては反省すべきだが、リンチされたこと自体、安原は悪くない。顧問に丸刈りにされてからは、誰よりも正しく部活動をしていたはずなのに、どうしてこんな目に遭うのか。しかし、安原は知っていた。正しいことが優先順位の一位ではない人間がいることや、普通にしているつもりでも他人からは不機嫌に見られる自分について。

野球部は辞めてしまった。辞めてほしそうな空気を顧問も出していたので、これで良かったのだろう。安原は今後の自分について考えた。そこで、できるだけふざけて、笑われるキャラに徹しようと思った。安原はお調子者のように振る舞った。学校行事などで、馬鹿な役どころは率先して引き受けた。そこで安原は、自分が意外と目立ちたがり屋なのだということに、初めて気付いた。

部活を辞めてみると、放課後の時間が在り余った。相変わらず読書は続けていたが、更にその隙間の時間にはラジオを聴くようになった。AMよりもFMが好きだ。音楽がいい。そこで安原はただ漫然と聴くのではなく、音の重なりと動きを追いかけるのに楽しみを見出した。トリッキーなコード進行や、変拍子に興奮した。曲を構成している一つ一つの音が、どういった理由でここに配置されているのか、曲の作り手の気持ちに寄り添うことの楽しさ。機械いじりなど、複雑な機構をばらばらにしたり組み立てたりする楽しみを持つ人がいるが、それに似ている。本が安原の世界を広げてくれるものならば、音楽は安原にとっての薬であった。元来、気分が落ち込みやすい性質だが、どうしても人前で元気に振る舞わなければならないときもある。自分の力だけで無理やりスイッチを入れるのはきつい。特定の音色の重なりが、特定の心の状態に誘い導いてくれる、そんな音楽に安原は救いを見た。どの曲がどういった薬になるのか、探求するのに飽くことはなかった。また、安原は貯めていた小遣いのほとんど全てをはたいて、七万円のアコースティックギターを買った。夢中になって練習する。最初に弾けるようになったのは『禁じられた遊び』という曲だった。スチール弦だがトレモロの練習もしてみた。『アルハンブラの思い出』もマスターした。しかし、安原がギターを弾くのに、両親はあまりいい顔をしなかった。特に父親は、ギターの音をうるさがった。仕方がないので、家に父親のいるときは近所の河原に行って練習することにした。

あるとき、授業で音楽の教員に、目の前でギターを弾いてみるよう言われたことがあった。安原が『禁じられた遊び』を弾いてみせると、教員は品定めをするような目で安原を見て、そして、拙いと言って笑った。安原はこの教員のことが大嫌いになった。また、彼はクラシックを他のジャンルとは違う、何かご立派な宗教のように崇めている節があって、授業で流行歌を馬鹿にしたような発言をする。その度、安原の腹は煮えくりかえった。どうして音大まで出て音楽を教えている立場の人間が、音楽に貴賎があるなどと考えるのか。そいつに比べれば、自分は音楽に関して、ずっと良い感じ方をしている。絶対音感などなくても、良い耳を持って良かった、安原はそう思うのだ。

二年生になると、望田という人がクラスの担任になった。二十九歳の女性で、背が高くて百七十センチはあろうか。長い黒髪をひっつめにして、てっぺんで丸めていた。肌の色が浅黒くて、どことなくエキゾチックな彫りの深い顔立ちをしているが、純日本人だという。担当教科は理科で、今年から生徒会の顧問もやることになったらしい。

安原は学校の教員という立場の人間に対して、懐疑的であった。

「先生」とか「教師」という呼称には敬いの色が入っている。師事する気持ちもない人へ、無差別にそんな呼び方はしない。事務的に「教員」とか「教職員」と呼んだ。「先生」というのは、あくまで教員に呼び掛けるときだけ、これは無用な争いを避けるために仕方なくそうしている。だから、頭の中では「センセー」だ。というのは望田先生が言っていたことで、安原はそれに感心したので、自分も倣ってそうすることにしたのだった。

望田先生はアナーキーでエキセントリックな人だ。例えば、

「教員の話なんて、テストの範囲以外は話半分で聞いとくのがいいよ。悪い意味で世間擦れしてない連中なんだから」

などと身も蓋もないようなことを言って笑っている。また、一般的には教員として良くないことなのかもしれないが、生徒に対してあまり関心がないようだった。生徒の顔と名前をいつまでも覚えなかった。生徒の髪型や服装が乱れていても何も言わないし、授業が進行できる程度ならば私語を注意しなかったし、自習のときは大抵教卓に突っ伏して寝ている。ホームルームも面倒なのか、とっとと終わらせて、早く帰りたがった。理科の実験のときだけは事故のないよう厳しい口調になったが、通常の授業のときは、自分のプライベートのことや、プロ野球の話や徳川埋蔵金の話をドラマティックに語って、よく脱線させていた。安原は既に教科書には全部目を通してしまっていたし、今までに読んだ大量の書籍から得た雑学レベルの知識もあったから、授業での話を全く聞かなくともテストでは結構良い点が取れるのだった。そのため、望田先生が授業に対してやる気がなくても、安原にとって何も問題はなかった。むしろ、教科書はいいから、もっと望田先生の日頃考えていることを教えてほしい。安原は大人が何に興味を持っているのかを知りたがった。そして、望田先生と話すために、よく職員室へ通った。いつも望田先生は職員室の隅の喫煙スペースで煙草をばかばか吸っていた。

「先生の吸ってる煙草は何?」

望田先生に対しては敬語が取れている安原だった。それについて先生から特に何か言われることはなかった。

「ホープだよ」

「なんでそれにしたの? 美味しいから?」

「味とかはわりと何でもいいんだけど、最初に買ったのがこれだったんだ。これね、自販機で買うと、二つ出てくるの。小さいのがころころっと。それがかわいかったの」

「ふうん。他のよりお得なの?」

「普通の煙草はもっと長くてたくさん入ってるんだよ、箱もこれより一回り大きいの」

「じゃあ、これって女性向けなの?」

「そんなことないんだけどね。どっちかというと、おっさんがよく吸ってるよ。これ、箱のデザインもいいよね。そっけないぺらぺらの紙箱でさ、おもちゃみたい」

煙草の箱をしゃかしゃか振りながら、望田先生は八重歯を見せて笑った。

ある日、珍しく望田先生の方から呼び止められた。

「お前さん、今、部活には入ってないんだったよね?」

「あ、うん」

「暇だったら、よかったら生徒会に入らない? 安原、すごく面白いから、来てくれると嬉しいんだけど」

暇だったら、という言葉はおかしい。生徒会活動は暇つぶしでいいのかしら。

「ぼく、真面目じゃないわ。生徒会ってガラじゃないと思う。うっすらぐれてるし」

そう言うと、望田先生は笑いだした。

「安原にぴったりだよ、生徒会。真面目なのはもう足りてるから、真面目じゃない人が欲しいの。うっすらぐれてるくらいがちょうどいいよ」

「うーん……」

「今の面子だと、どうも堅過ぎるんだ。だから是非、来てほしいな。ほら、安原って物怖じしないし、華があるじゃない? 向いてると思うんだけど」

望田先生が誘ってくれたということに安原はじんとして、生徒会へ入ることに決めた。入ってみると、確かに優等生で勉強のできる奴が多かったけれど、跳ねっ返りでふざけてばかりの安原の居場所がないということはなかった。真面目な部分は得意な奴に任せておいて、安原は馬鹿をやっていればそれなりに重宝がられた。みんなが恥ずかしがってやりたがらない役どころを、どんどん自分が頂こう。体育祭のラジオ体操では、壇上で元気いっぱいに動いた。笑いをこらえている生徒を上から見るのが楽しい。文化祭の余興で、自分の書いた一人芝居をやったり、卒業式の歌の練習は、前に立ってノリノリでテナーパートを歌った。周りが持ち上げてくれるので、自分でも面白がって、どんどん羽目を外した。役に立つ人間に対しては、みんな優しい。女みたいに振る舞う安原を、生徒会の男子も女子も誰も拒絶しなかった。自分の立ち位置が分かると、過ごしやすい。次第に他人とコミュニケーションを取ることが面白いと感じるようになっていった。

三年生でも、望田先生が担任になった。クラス替え直後の自己紹介では、安原は相変わらずくねくねしながら「ヤスって呼んでください」と言う。最初に安原が仲良くなったのは、須藤純という女子だった。陸上部の中距離選手で、朝礼で表彰されたことのある子だ。名前と顔は知っていたし、ホームルームが終わった後、女子同士で固まらずに一人でフラフラしていたので、話しかけやすかった。須藤は安原に「ヤスって呼ぶね」と人懐っこく笑った。彼女の一人称は「オレ」だった。安原とは対照的に、男のような振る舞いをする女子だった。髪型も安原と同じくらいには短くしていて、スポーツをしているから髪の毛が邪魔というのよりも、男子になりたくてそうしているように、安原には見えた。疑問に思ったことがあると、すぐに口に出してしまう安原である。須藤に、

「須藤は男子になりたいの?」

と素直に質問してしまった。須藤は質問の意味が分からない、と首を傾げた。

「『オレ』って言ったり、ちょっと男っぽいなって思ったから」

そう付け加えると、須藤は笑って、

「そうだね、男になりたいのかも。というか、男みたいに強くなりたい。力もそうだし、心も」

と答えるのだ。でも、男だから強くなれるわけではない、と安原は思う。安原は男なのに、力も心も弱い。しかし、女言葉で喋る自分のことを棚に上げた質問だったし、さすがに初対面では失礼だったかもしれないと気付いて、謝ると、須藤はそんなこと全然気にしなくていい、と笑ってくれた。安原は胸を撫で下ろした。

それから、須藤が誘ってくれたので、須藤の友だち二人を加えた四人で途中まで一緒に帰ることになった。一人は榊敦司という男子で、前も須藤とは同じクラスだったのだそう。榊は放送部の部長で、朝礼が始まる前にマイクセッティングをやっているので顔は知っていた。昼の放送も男子の声は榊だという。一度、安原がリクエストカードを書いて出したときに、その曲が流れたことがあった。そのときのDJは男子だったので、榊が採用してくれたのかもしれない。それを言うと、覚えていてくれたようで、

「あのリクエスト、ヤスだったんだな。そこのTSUTAYAにCD置いてなくてさ、結構探したんだ」

と、言う。

「なんか、余計な手間をかけさせてごめんなさいね」

謝ると、

「いやいや、気にしないでどんどんリクエストしてよ。放送やってても反応ないと寂しくなっちゃうし」

と、榊は笑った。安原は嬉しくて胸がいっぱいになった。榊は音楽好きで、洋楽も結構聴いているらしいので、きっと話が合うだろう、という期待が膨らんだ。音楽の話から、音楽の授業の話になる。安原は、大嫌いな音楽の教員のことを口にした。

「今年も音楽は長谷なのよね。異動してくれれば良かったのに、死ぬほど嫌な教員に限って、異動しないのよね」

すると榊が、

「あー、俺もあいつ嫌い。『僕はクラシックしか聴かないけど』っていつも前置きしてさ、なんか物の言い方が気に障るんだよな。絶対喧嘩売ってるよな」

と、同調して憤慨した。須藤もあまりこの教員が好きではない、と頷いて、悪意のこもった声帯模写をした。それがよく特徴を捉えていて、笑った。嫌いな人間を一緒になって非難することで、人は仲良くなる。

そうして教員の悪口に花を咲かせている間、須藤の紹介してくれたもう一人の友だちである、魚住優子という女子は、何も言わずに時々相槌を打っているだけだった。

「魚住はどう思う?」

気になって安原が話を振ってみると、魚住はびくりと震えた。魚住の反応に驚いた安原は、

「え、どうしたの?」

と、つい責めるような口調で尋ねてしまった。魚住は眉を寄せて笑ったが、何も言わない。何が言いたいのかな? とじっと見つめていると、須藤が間に入って、

「優子は吹奏楽部なんだ。長谷は顧問の先生だから、あんまり悪く言えないよね、優子、ごめんね」

と言う。すると魚住は、

「ううん……」

と首を振って、歯切れの悪い返事をする。俯いて、もう安原の方を見ない。須藤が一所懸命フォローしているのに、なんか感じの悪い子だな、と安原は思った。

その後も魚住は電停で別れるまで、何も喋らなかった。安原と須藤と榊の三人は商店街のある方角へ歩いて行く。

「あの子、何なの?」

安原は魚住の態度について不満を口にした。すると須藤は、

「優子はいい奴だよ。面白いよ」

と庇う。榊まで、

「緊張しいなんだと思うよ。だからあんまり辛く当たんないであげて」

とフォローする。魚住をよく知っている二人が言うならそうなのだろうし、魚住に対して怒っているわけでもないのだが、なんとなく妬ましい気持ちになり、こうやって優しい友だちに庇ってもらえていいですね、と安原は内心で毒を吐いた。

大きな交差点の手前で、安原は二人と別れた。二人とも道の向こうに見える商店街のお店の子なのだそうだ。家が自営業、というのに安原はシンパシーを感じた。安原の父親は不動産会社の社長で、安原は一人息子である。そのままいけば家業を継がされる立場にあった。安原が机について勉強をしているとき、母親は機嫌が良い。勉強をしなさいと叱られたことは今までに一度もなかったが、無言の圧力を安原は感じていた。息苦しいような気がして、最近はできるだけ学校の図書室や市立の図書館に行って勉強するようにしていた。そこでは勉強をしようがすまいが、誰も安原のことなんて見ていない。本を読みたいという誘惑に駆られるのは少し困ったことだったが、自宅学習に比べればよっぽど勉強が捗るのだった。

昼休憩は適当に席の近い奴に声をかけて机をくっ付ける。須藤が、オレらも混ぜて、と言うので、大きな島になった。弁当持参の生徒は少なかった。また、男子の中には購買のパンを四つも五つも買って、それだけで腹を膨らませる奴がいた。元来少食で、菓子パンは食事になり得ない、と思っている安原には理解できない食生活だ。席について弁当を広げると、

「うわあ、ヤスの弁当豪華だね」

向かいに座った須藤が身を乗り出してきた。

「ヤスの家の人、料理上手なんだね。めちゃめちゃ凝ってるじゃん。それに、ここんとこ、笹の葉っぱが入ってて高級っぽい」

安原は弁当の蓋を閉めたくなった。マザコンと思われるのではないか、とどぎまぎする。須藤の言う「笹の葉っぱ」というのは、バランのことで、よくあるプラスチックでできたぺらぺらのバランではなく、笹が入れてある。安原はそれをつまみ出した。

「そんなことないわ。須藤だって、ちゃんとしたお弁当じゃない」

話を逸らせるために、須藤の弁当に言及する。

「昨日の残りだよ」

須藤は答えた。すると榊が、

「須藤は自分で弁当作ってるんだよ」

と入ってきた。

「すごいじゃない」

「そんなことないよ。適当だし」

須藤は謙虚して、ちょっと照れる。すると須藤の隣に座っている魚住が、

「そんなことあるよ、純のお弁当美味しいよ」

と、自分の弁当のおかずをつつきながら須藤に言った。魚住は弁当箱を机の上に広げているのだが、須藤の方向へ斜めに置いていて、座り方も斜めになっている。反対側にも男子が座っているのに、そちらにはクローズな姿勢で座っているのだ。そちらの男子とは話をしていない。アンタは仲のいい人としか打ち解けて喋ろうとしない、排他的な人間か。

「なんだ、アンタ喋れるんじゃない」

安原がチクリと刺すと、魚住は表情を引き攣らせた。すると、

「ちょっと、ヤス、口が悪いよ」

須藤が慌てて取りなした。安原はむくれた。

榊とは本やCDの貸し借りをしながら仲良くなっていった。榊の、いつでも家に来なよ、と言ってくれるその気軽さが、安原には眩しい。安原は自宅に友だちを呼んだことがない。いつも家には母親がいて何かと息子の世話を焼くのだが、それが普通なのかそうでないのか、他の家とどの程度違うのかを安原は知らなかった。もしも自分と母親の距離が普通の範疇を超えていたら、恥だ。家が裕福なのもいけない。甘やかされて育ったという自覚はあった。それは安原が一番隠したい恥部だった。できることなら脱ぎ捨てたい。しかしそう考えるだけで結局は、中学生であるぼくにはどうすることもできない、と行動に出ることを諦める安原だった。

五月の連休明けの日、外は雨が降っている。榊が、暇だから家に来い、と言うので、遊びに行くことにした。榊の家は薬局をやっていて、そこの二階だという。行ってみると、店はすぐに分かったが、家の入口が分からない。

「こんにちは。あの、榊君のクラスの者なんですけど……」

店の人に尋ねると、榊のおばさんが応対してくれた。

「ああ、家の入口は裏にあるのよ。分かりにくくてごめんなさいね」

「そうですか、ありがとうございます」

安原が頭を下げて店を出ようとすると、

「ちょっと待って。外、まだ降ってるでしょう。こっちから上がれるから、どうぞ」

おばさんは手招きをして、安原をレジの内側へ通してくれた。

「すみません」

と、また頭を下げる。

「どうぞ、階段上がってすぐ左が居間で、奥の右手が敦司の部屋になってるから」

「はい、ありがとうございます。お邪魔します」

「ゆっくりしていって」

榊のおばさんの気取らない感じが羨ましいと思った。階段を上がって、居間の扉のガラス越しに見てみると、榊は大の字に寝転んでテレビを見ている。自由、という文字が安原の頭に浮かんだ。

二人はひとしきりテレビゲームをして遊んだ。それから、しばらくして、

「あ、そうだ、俺、須藤と付き合ってるって言ってたっけ?」

榊は急に安原へ脈絡のない質問をした。安原は驚いた。何組の誰それが付き合っている、という噂が耳に入ることはあっても、誰かと付き合っているという人が身近に一人もいなかったから、男女交際というものを安原は雲の上の話のように思っていたのだ。榊と須藤の二人が一緒にいるところはいつも見ているが、付き合っていると思ったことなどなかった。榊があまりにもしれっと聞くので、「いや、知らなかったけど」と安原はなるべく落ち着いた声で返した。すると榊は、今度はちょっともじもじしながら、

「あ、そうなんだ。言わないと気付かれないもんだね……。まあ、ヤスには知っておいてもらった方がいいかなと思って。別に隠してるつもりはないんだけど」

と言いだした。安原はこれにも「ふうん」と気のない返事をした。しかし、安原の頭の中では疑問符が溢れ出した。付き合っているとなれば、当事者に聞いてみたいことが山ほどあった。「付き合う」ってどういう感じ? 両想いとは違うの? 友だちとは違うの? そもそも付き合って何をするの? 男は女に尽くしたり、楽しませてあげなきゃいけないの? しかし、須藤も友だちなので、それらを聞くのは、はばかられた。

次の日学校で榊と須藤を見ると、安原の心に、ある違和感が生まれた。二人の行動は今までと何も変わらないのに、二人が付き合っていることを意識すると、いちゃいちゃしている、というふうに見えるのだ。これには参った。他人の恋愛を見て、照れてしまう安原だった。

安原は放課後に学校の図書室へ寄って帰ることが多かった。この日も長編小説の五、六巻を本棚から取って来て、読み終わった三、四巻と一緒に受付に持って行く。座っている図書委員へ、

「返却と貸出お願いします」

と言って、安原は貸出カードと本を四冊まとめて渡した。

「あ、えっと、これ、五と六が貸出ですか?」

図書委員の女子は慣れていないのか、慌てた様子で尋ねる。安原は、今の言い方は不慣れな子にはちょっと不親切だったかな、と反省して、

「あ、そうです。すみません」

と頭を掻いた。

図書委員の女子は貸出の手続きを済ませると、小さな声で、

「五月二十三日までです……」

と返却期限日を告げて、安原に本を手渡した。

家に帰ってその借りてきた本を読み始めると、真ん中辺りにメモ用紙のようなものが挟まっていることに気が付いた。誰かが挟んだ栞かと思ったが、それにしては厚みがあるので抜き取ってみると、それはよく女子が授業中に回しているような、謎の折り方で畳まれた手紙なのだった。そのまま同じところに挟んで本を返そうか、それとも読んでみようか、安原は考えた。しかし、一旦開くとまた同じように畳み直せる自信がない。畳まれた状態で見える部分には何も書かれていないので、誰に宛てたものなのかは分からない。蛍光灯に透かして見ると、女子らしい筆跡が見えたが、内容までは読めなかった。結局、そのまま元のところに挟んで返すことにした。

一週間後、続きを借りるために図書室へ行った安原は、いつものように手続きを済ませ、隅の席へ腰掛けた。宿題を片付けようと安原が鞄を開けていると、女子が二人連れ立って机の前にやって来て、「安原先輩」と呼ぶ。見たことのない二年生だった。

「あの、手紙は読まれました?」

一人が安原に尋ねる。手紙とは、返却した本に挟んであったやつのことだろうか。

「手紙って?」

念のためそう聞き返すと、

「さっき先輩が返した本に挟んであったやつです、これ……」

と、例の手紙を手に、その女子は眉を寄せて不機嫌そうな声を出す。

「確かに挟んであったけど、それがどうかしたの? ぼくは読んでないけど」

一度読もうとは考えたのだが、それは伏せて答えた。すると、目の前の二人は、えー、と図書室では大き過ぎる声で叫んだ。他の生徒がチラチラとこちらを見ている。安原は二人に向かって、「し」と口に人差し指を当てる仕草をした。

「どうして読んでないんですか、これ先輩宛てなのに」

「宛名の書いてないものを読めって言われても困るわ」

「信じられない。カナがちゃんと手渡したじゃないですか」

「カナって誰よ」

「図書委員ですよ。本に挟んで渡したじゃないですか、なんでそういうこと言うんですか」

「知ったこっちゃないわ。大体、家に帰ってからそれに気付いたのに、誰が挟んだかなんて分かるわけないでしょ」

「じゃあ、今読んでください」

女子は手紙を安原の手に押し付けてくるので、

「イヤ」

と撥ね付けた。だんだん安原もいらいらしてきて、声が大きくなる。

「ひどい、読むくらいしてくれたっていいのに。カナがどういう気持ちで、これ書いたと思ってるんですか」

「じゃあアンタ、宛名も差し出し人も書いてない手紙が届いたら封を切って読むわけ? ていうかそれ以前に、宛名も差し出し人もないものは手紙の必要条件満たしてないわ。手紙じゃなくて、せいぜいチラシよね。ぼくが読もうが読むまいが自由だし、アンタにも関係ないわ」

安原が放言すると、女子はそれには答えずに話を曲げだした。

「カナは一年の頃から安原先輩のこと好きなんですよ、だから図書委員にまでなって頑張ってるのに、無視するなんて、かわいそうじゃないですか」

論旨がめちゃくちゃなことを喚き散らすので、安原は怒り心頭に発した。

「個人として意識して欲しいなら、まず自分から名を名乗れ!」

大声で叫んだ。一瞬で図書室はしんと静まり返った。室内にいる全員からの注目を集めているが、興奮している安原は構わず捲し立てた。

「大体、こんなラブレターだか不幸の手紙だか分かんないようなシロモノを、名前も書かずにコソコソ渡そうとして、あげくに返事を貰ってくるのまでアンタら他人に一任するような頭の弱い奴が書いたもん、読む価値ないわ、時間の無駄だわね。しかも、こんなもん渡すために図書委員になったって? ぞっとするわ。アンタね、知らない奴から常にそういう視線を向けられてるって考えてごらんなさいよ。薄気味悪いわよ、吐きそう」

二人の女子は何か言い返そうと口を開いたが、そのとき、安原の背後で図書室の扉の開く音がした。すると、目の前の女子の表情がみるみる凍りついた。安原が振り返ると、先週、本の貸出手続きをしてくれた二年生、女子が言うところのカナが立っていた。

「あ……」

か細い声でカナは叫んで、安原の方を見た。友だち二人が、今まさに安原から返事を聞いているところだというのは分かったのだろう、彼女は俯いた。安原は自分の鞄を引っ掴んで、女子の持っている手紙を奪い取ると、つかつかとカナの目の前まで歩いて行った。そして、それをメンコのように足元に叩きつけると、

「アンタ、気持ち悪い!」

と低い声で怒鳴った。泣いたって知るものか。安原はカナを打ち遣ってドアの方へ大股で歩いて行った。

「お前のがよっぽど気持ち悪いわ、オカマ野郎!」

女子の一人は図書室を出る安原に、そんな罵声を浴びせた。理不尽なことばかりだ。安原は恋されていたのかもしれないが、安原にとってはこんなものが恋愛であるはずがない。安原は恋をしたことがなかった。女子に好きだと言われて、嬉しいと感じる心が果たして自分にあるのかどうか、それさえも疑わしい。だから、もしかすると、自分は恋愛感情や性欲を持たない無性愛者なのではないか、と以前読んだ本に書いてあった内容を思い出した。ただ想うだけの恋愛を含む、自分にまつわる性的なことの全てを、安原は汚らわしいと感じるのだった。

図書室の一件から二カ月が経っていた。安原がその時借りた本は、教室の机の中へ入れっぱなしになっていた。返却期限はとっくに過ぎている。あれから一度も図書室へは行っていない。誰かに頼んで本を返しに行ってもらおう、そう思うのだが、理由を話すのは嫌だったし、人に頼みづらいものがあった。

各クラス一人ないし二人は図書委員がいる。安原のクラスの図書委員は魚住である。それも安原を憂鬱にさせた。魚住は安原の顔を見るたびに必要以上にびくびくして、安原はいつもそれをうざいな、と感じていた。魚住が返却の催促をしにくるのか、あるいは安原に話しかけづらいからと魚住は催促を他の人間に頼むのか、どちらであっても安原にとって不愉快だが、どちらかというと後者の方が、より安原をいらつかせるだろう。自分の仕事くらいはしっかりやれ、と安原は本を返さない自分のことを棚上げして思う。

そんなことを考えていると、放課後に魚住がそろそろと斜め後ろから近づいてきた。

「安原君……」

と安原が聞こえるか聞こえないかくらいの声で呼ぶ。

「何よ」

安原がつっけんどんに返事をすると、

「あ……、あのね、私、図書委員をやっていまして、返却が遅れてる人には声をかけさせてもらっているんだけどね……、安原君が五月十六日に借りた二冊、返却がまだなんだけど……」

魚住がそこで言葉を切って窺うような目を向けるので、

「けど、何?」

安原は意地悪に返した。何が言いたいかは推し量ってくれ、という態度が安原は気に入らない。魚住は泣きそうな顔になった。

「あの……、本、持ってきてもらえると助かります……」

「あるわよ、ここに」

安原は机の中から本を取り出して、それを魚住の目の前に突き出した。魚住は慌てて本を受け取った。

「返しといてもらえる?」

魚住が下手に出るせいか、安原は高圧的な物言いになる。何か脳内物質が出るのだろうか、わけも分からずぞくぞくしてしまうのだ。

「あ、はい……」

そう答えて本を胸に抱きしめた魚住の表情は、安原には読み取れなかった。怯えているようにも、困っているようにも見えたし、怒っていたのかもしれない。

罪悪感は遅れてやってくる。安原は今までいじめられたことはあっても、人をいじめたことはないと思っていた。性格は悪いが、それを律することができる、正しい自分だと信じていた。しかし、先日の魚住に対する自分の態度を思い返すと、限りなくいじめに近いことをしていたと気付く。あそこまで自分は他人に意地悪になれるのか、と新たな一面を発見してしまい、安原は頭を抱えた。そして、謝ろう、と思った。この際、相手が自分をどう思っているかは関係ない。謝ることで罪悪感を払拭しよう。謝罪というのは、頭を下げる人間の快楽のためにある。

魚住は女子のグループで固まって話していることが多かった。周りの女子にやいやい言われるのも面倒なので、掃除時間の終わりに魚住が一人になるのを待った。

「ちょっといい?」

安原が声をかけると、魚住は肩を強張らせた。

「話があるんだけど。こないだのことで、謝りたいの」

安原がなるべく優しい口調でそう言うと、魚住は一瞬固まって、それからカクンと頷いた。魚住は今からゴミ出しに行くようだったので、

「歩きながら話しましょう。それ、持つわ」

安原は魚住の手からゴミ箱をやんわりと取った。

「こないだはひどく言い過ぎたわ。ごめんなさい。しかも、本の返却まで押し付けちゃって、お礼を言うべきだったのに」

「ううん、大丈夫」

魚住は首を振った。

「いつまでも返さなかったぼくが悪いのに」

「そんな、全然。気にしないで」

「ごめんね、魚住」

安原が魚住の目を見て謝ると、魚住はぱっと目を逸らして首を振る。

「安原君が図書室に行きにくいのは分かるから。だから、いいの。気にしないでね」

魚住はそんなことを言う。まさかこの間の手紙のことが図書委員の中で、噂になっているのだろうか。

「知ってるの? その、ぼくが図書室で二年生の女子と言い合いになって、あげく図書委員の子泣かせて帰ったこと」

「うん」

「そう……」

「私、誰にも言ってないよ。これからも、言うつもりないし」

「別にいいわよ。魚住が言わなくても、他の誰かが言ってるでしょ」

「私、安原君は悪くないと思う。話大体聞いたけど、あれは二年の子が良くなかったよ。あんな手紙もらっても普通読まないし、怖いよね。怒るのも無理ないよ」

「ううん、あんな怒り方はなかったかも。腹が立って、怒鳴ったの。今考えると、みっともなかった」

意外な人が味方になってくれたので、安原はしおらしくなってしまった。ゴミの集積ボックスにゴミを入れる。

「恥ずかしいことを知られてしまったわ」

安原はため息をついた。安原にとっては女子を振ることが何の勲章にもならない。ただの恥だった。

「あんまり落ち込まないでね。他の図書委員の人たちも、安原君は悪くないよねって言ってたよ。恥ずかしくないよ」

「ううん……恥ずかしいわよ。恥の多い生涯を送っているの」

「そんなことないよ」

魚住はこれが太宰のもじりだと分かっていないようだ。たまに、この手のジョークを言っては人の知識を試したがる悪趣味が安原にはあった。空になったゴミ箱を、安原はぽこぽこ蹴りながら歩いた。

「そういえば、借りてた本の続きは気になるでしょ? 安原君が読むんだったら、私、借りてこようか?」

「それだと又貸しになっちゃうから、市立の図書館で借りることにするわ」

「そう、分かった。あれって、どんな話なの?」

「あれはねー」

魚住と打ち解けて話している間も、安原は頭の隅で考えていた。魚住を嫌いだと思っていたのは、彼女の中に入れてもらえなかった自分が悔しかったからで、実際、入れてもらえたと感じた途端、嫌いと思う気持ちが薄らいだ。安原は今まで、彼女の他人に対する態度そのものを嫌っていたはずなのに、これではまるっきり自分基準である。

物事に対して、常に一貫した態度を取りたい。自分の損得よりも、何が正しいのかで判断したい。もっと公平な目を持ちたい。安原は自分に苛立ちを感じた。

>>〔二〕へ続く

Jul11, 2012

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