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〔二〕水魚のナントカ

小さい頃、安原はよく女の子に間違われていた。男の子にしては髪を長めにカットしてもらっていたし、顔のパーツも女の子っぽかった。肌の色が白くて、さらさらの髪、鼻筋が通っていて、目がぱっちりしていたので、大人はその造作をちやほやした。一方で、同級生には、最初は怖い人だと思った、とか、冷たそう、などと言われることも多かった。安原の顔の造りは整っているが、愛されにくい。しかし、性的な視線に晒されるのには生理的に嫌悪を感じるが、この整った造作を手放すのは嫌だと思う。自分の顔を醜いと思いたくない。

「顔の美醜で差別されるのは仕方がないとして、なんで女性だけが化粧でごまかすことを強いられるのか納得いかないわ。綺麗な人でさえ、化粧をしないとマナー違反って言われるんでしょう?」

安原は榊にそんな質問をしたことがある。

「女はちょっとでも化粧すると綺麗になるからなあ。でも男は化粧しても、美しいっていうベクトルに行かないからじゃないの? 男の魅力は力強さじゃん。化粧で力強さは作れないし」

榊は、将来は化粧をする仕事に就きたい、と夢を語っていた。家が化粧品店も兼ねているから、自然とそちらに興味が湧いたのだという。

「それは分かるけど、じゃあ女性の化粧はマナーっていうのはどうかと思うのよ。自分を綺麗に見せたい人は、化粧すればいいと思うわよ。でも、顔なんてついてるそのまんまでいいって思ってる女性もいると思うの」

安原が主張すると、榊は考え込んだ。

「言われてみるとそうか。これって男社会の傲慢かもな。女の顔は男の鑑賞のためについているっていう。だから全員化粧してちょっとでもマシに見せろやっていう」

「うわあ、男っていやあね」

安原が眉をひそめると、榊は噴き出した。

「でも実際そうだよ。ちょっとでも綺麗になるなら化粧してよって俺、思うもん。でもさ、女も男に対してもっと筋肉つけろよとか思ってるんだろうなあ。それがマナーにまでなってないだけで。この先女が社会でどんどん台頭してきて、声がでかくなると、女が男にあれこれ言い出すのが増えるんじゃないの? マナーが増えるかもよ」

「マナーって言葉は怖いわよね。強制力が半端ないわ」

「今のうちに体鍛えとこうぜ」

「アンタはいいわよ、背も高いし。ぼくなんか筋肉だけ付けたってどうしようもないわ」

体格のいい榊に対して、安原は身長が一五九センチで、ひょろひょろである。

「ヤスは整った顔してるから、大目に見てもらえるんじゃないの」

顔を褒められると、安原はいつも困惑した。実際、安原自身、顔が整っていることを自覚しているのだが、それを他人に言うと、いくら事実であってもナルシスト呼ばわりされることは分かっているので、答えに窮した。結局、

「そんなことないわよ」

と言うに留まるのだ。安原は自分を否定されるのが怖い。しかし、榊は人を馬鹿にしたり、いたずらに責めたりする人ではないと安原は知っている。安原は自分の考えていることを話して、それに榊がどう答えるのかを聞きたがった。それは自分の世界をむき出しにする行為だ。

「ぼくは努力して勝ち取ったもの以外を褒められてもあんまり嬉しくない。顔は生まれたときからついてるし、努力して綺麗に見せようとしてるわけでもないから。だから、努力したことを褒めてもらいたいって思うの。努力したらとにかく褒めてっていうんじゃなくて、結果の伴っている努力で褒められたいわ」

安原がそう言うと榊は、

「例えば何を褒めてもらいたいの」

と質問してきた。安原は自分を振り返って考えてみた。すると、自分では努力していると思っていることが、実は他人からすると大したことではないのではないか、と疑えるのだ。

「ギターを練習してる……」

自信がなくて声が小さくなってしまう安原だ。

「うんうん、ヤスはギター上手いんだよな。俺、聴いたことないけど。今度聴かせてよ」

榊の優しさに、ますます縮こまってしまう。

「それと、みんなに合わせるようにすること、とか……」

「うん、具体的にはどんな?」

「周囲から浮いてる自覚はあるから、せめて好きな人たちを不愉快にさせないようにって思ってる。相手がぼくに何を言ってほしいのか、どう振舞ってほしいのかを考える。それでひとつやってみて、いい感触だったら『やった、正解!』って嬉しくなるし、駄目だったらまた考える。人間関係におけるPDCAサイクルみたいな……。でも、そういうのこそ誰も褒めないって分かってるんだけど」

と言ったものの、こんなのきっとみんなやっている。意識しなくてもできる榊みたいな人もいる。これを努力だと思うのは、なにもかも放埓に自分の意見を他人に示してしまう癖が安原にあるからだ。この自己主張の激しさの原因は、安原が人に侮られたくないと思っているからだった。しかし本当の賢者は、他人とぶつかることを是とするだろうか? そう思うからこそ、こうして努力していることをアピールしてしまう。他人に合わせられない自分を許してほしい、心の底ではそう思っているのだ。

「え、何、Pなんとかサイクル?」

榊は知らない言葉が引っかかったらしく、そう聞いてきた。安原は、

「ううん、何でもないの」

と笑った。

一学期が終わる。終業式の日、帰りのホームルームの最後に望田先生はこう締めくくった。

「私、結婚しました。名字はお前さんたち三年生が卒業するまではこのままいきます。さて、夏休みは怪我のないよう過ごしてね。以上」

これにはクラス中がどよめいて、質問が飛んだ。すると、ちょうどいいところでチャイムが鳴ったので、望田先生はしめたとばかりに、せかせかと教室から出ていった。安原は先生の結婚に驚きはしたものの、結構冷静だった。何も答えずに帰るなんて、面白い。恥ずかしかったのかな?

望田先生と話していても、恋愛についての話題が出たことは今までに一度もなかった。生徒に対して、「好きな子はいるのか」とおちょくってくるような人ではなかったし、先生自身の恋愛も一切ネタにしなかった。望田先生に恋愛相談をしてみようか、と安原は思い至った。恋愛の香りがしない人の方が、話しやすい。ぼくは恋愛ができないっぽいのだけど、どうしたらいいですか?

その足で職員室に行くと、クラスの連中が望田先生に群がっていた。聞き耳を立てると、どうやらさっきの結婚の話で、先生は質問攻めにされていた。

「名前くらい教えてよ」

と女子がすがりつくので、望田先生は、

「じゃあ、鈴木」

と答えた。

「え、本当に鈴木?」

「佐藤だったかも」

「なんなんスか、それー」

「忘れちゃった」

はぐらかすので、話が全然進んでいない。すると、

「私、お腹空いたから、ごはん食べます」

望田先生は質問攻めに我慢できなくなったのか、カタコトみたいに言っていきなり立ち上がった。財布だけ持って、早足で生徒を振り切る。出口に立っていた安原はげらげら笑った。

「あれ、安原まだ帰ってなかったの?」

「ちょっと先生に相談したいことがあったの。でもなんか忙しそうだから、見てた」

望田先生の早足について廊下を歩きながら安原が見上げると、

「ふうん。じゃあ、私コンビニでごはん買ってくるから、理科準備室で食べながらでいい?」

先生の八重歯が見えた。

お茶碗の中にコンビニおにぎりを崩して、その上に塩吹き昆布を乗せてお茶を注いだものを、望田先生は目の前に置いてくれた。安原が手ぶらで理科準備室に行ったところ、昼食を分けてくれたのだ。

「ありがとうございます。いただきます」

安原は割り箸を割って、手を合わせた。

「ふやかして食べると、一個でも腹にたまる」

と望田先生はおにぎりを箸でぶっ刺して、崩している。

「おいしい。こういう食べ方があるのね。先生、賢い」

「さては、いいとこの子だな?」

先生は冗談で言ったのかもしれないが、その言葉は安原の胸にチクリと刺さった。

「相談って、なあに?」

望田先生はさっさと食べ終わって、安原に質問した。

「相談っていうか……、夏休みが始まると、一人で考えるだけになっちゃうから、その前に先生に話を聞いてみようと思ったんだけどね、ぼくは、その……」

やはり、恋愛のことを口にするのは照れる。誰も好きではない、ということを言うのもこんなに恥ずかしいのに、誰かに恋している世の人たちは、あの人のことが好き、などとよく口にできるものだ、と安原は尊敬してしまう。

「これから、ぼくは誰も好きになれないような気がするの。誰かに好かれても嬉しくないし、むしろ、気持ちが悪いって思う。それに、男子同士であの女子がかわいいとか、エロいとか言っているのを聞くのもダメで、周りが他人をそういう目で見ている人ばっかりなんだって思うと、それだけでぞっとするの」

「うん、なるほど。でも、安原は友だちとして人を好きになったり、好かれたりするのは問題ないんでしょ?」

望田先生が尋ねるので、安原は頷いた。

「それなら何も問題ないと思うよ。周りが気持ち悪いってのはちょっと我慢する必要が出てくるけど。みんながしているからって、恋愛っていう人間関係のカテゴリーが絶対必要なんて思わなくていい。友だちだって大切だよ。世の中、恋愛至上主義の勢力が強すぎて私は辟易するね」

「でも先生、結婚するんでしょう?」

「私は情けないことに強い勢力の波に飲まれたのだ。でも、結婚も恋人も、なきゃないでそれなりに生きていけるよ。人は少しずつ誰かに助けてもらいながら生きていけるんだ」

安原は望田先生の言い訳をしないところが好きだ。

「というか……相手はさ、幼馴染なんだ。恋愛よりも、家族みたいな感じ。体力的にきつい仕事してる人だから、一緒に暮らしてやろうと思ったの。それにもし体壊したら、自分の給料で助けてあげられるし、それだけだよ」

「何の仕事をしてる人なの?」

「陸上自衛隊。でもあんまり他の人には言わないでね。教員の中では風当たりが強いんだ。左巻きが多いから」

「うん、分かった」

望田先生が内緒の話をしてくれたということに、いたく感じ入ってしまった安原は、自分の相談はどうでもよくなってしまった。それに、人は少しずつ誰かに助けてもらいながら生きていける、という望田先生の台詞は良かった。一人でも生きていける、と言わないところがいい。安原は丁重に頭を下げて、理科準備室を出た。こうして今まさに自分を助けてくれる人がいる、ということが嬉しい。

夏休み中、安原は市の図書館に通い詰めることにした。図書館が休みの日は、河原でギターの練習をしよう。夕方の川面では、魚がぽんぽん跳ねている。

あるとき、母親が高校への進学について、安原に聞いてきた。母親は安原が国立大附属高校へ行くものと断定して話を進めだす。中学受験に失敗したことを気にしていたのだろう。安原は高校について何も考えていなかったので、戸惑った。

安原は小学校を卒業して以来、公共交通機関全般を絶対に使わなかった。車内の人口密度の高さは地獄だ。だから安原は自転車でどこへでも行った。去年卒業した生徒会の先輩から貰った、ボロくてステッカーまみれのママチャリが今の安原の愛車だ。川べりを自転車で走りながら安原は考える。高校生になった自分を想像しようとしても、自分が年を取っていくということがうまく考えられない。たった半年先の自分すら見えないのだ。これはまずい、何も考えずに流れに任せていると、思ってもみない方向へ行ってしまう。こんなとき、安原には相談できる人たちがいる。榊や、望田先生や、クラスの他の友だちや生徒会の人でもいい。夏休みが明けてその人たちに会うまで、力を溜めよう。本をしこたま読んで、考えよう。

安原の中での本のブームというのがある。少し前までは歴史もの、戦記ものがブームで読み漁っていたが、それは七月で終わり。夏休みに入ると、実用書を読みだした。料理の本でもプロ向けのものが図書館には置いてあって、各国料理の文化的背景から世界史を感じることができる。全く料理をしたことのない安原が読んでもわくわくした。また、機械技術系の本は基本的に何が書いてあるのか理解できないのだが、その「理解できない本がある」ということが安原の知的好奇心を刺激した。本の中には見たこともない世界が広がっている。

八月、川沿いに自転車を走らせれば、草いきれが立ち昇る。一方、遠くの高台に見える霊園には盆灯籠がたくさん刺さっていて、折り紙を全部ぶちまけたような配色の飾りが風になびいてきらきらしていた。盆灯篭や千羽鶴、夏の盛りから終わりにかけて、この町には死のイメージを纏ったカラフルが溢れ出す。夏のたびに、自分もいつか死んでしまうことを意識せずにはいられない。町の空気にあてられる。

ある日、安原が自転車で郊外まで出ていると、途中に家並みが他と比べて明らかにぼろぼろの地域があるのに気が付いた。その近くのスーパーで、安原は異様な光景を見た。全身が痩せこけているのだが、お腹だけぽこっと膨らんでいる、薄汚れた服を着た女の子がいる。年の頃はおそらく小学校低学年くらい。ごはんはちゃんと食べているのだろうか、学校へは行っているのだろうか。安原は心配と興味本位で、女の子のあとをついて行った。女の子のすぐ側に父親と思しき男が寄って行ったので、じっと二人を遠くから見ていると、二人は小さいパンのようなかたまりを分け合って食べだした。安原は胸が苦しくなった。それから二人は疲れたような歩き方でスーパーの敷地の隅の方へ行くと、男は地面に寝転がり、女の子は男の側に膝を抱えて座った。そうしてしばらく女の子は炎天下の中、じっとスーパーの入り口の方を見つめていたのだが、何かに気付いたのか、駐輪場へ向かって駆け出した。すると次の瞬間、女の子は駐輪場に停められた自転車の前かごの中から、商品の入ったスーパーの袋を盗ったのだ。安原は目を覆いたくなった。女の子は彼らの貧しさに対してどうすることもできない。それが安原の心を打ちのめした。貧しくてもごはんを食べられる社会制度はあるけれど、それを知らなければ恩恵を受けられない。無知であることは、即ち死である。心の底から無知に対する恐怖が湧き上がってきた。それに、自分はこれからずっと豊かでいられるだろうか。例えば今、親の会社が潰れて一家が路頭に迷うことになったら、貧しさを知らない、一人で生きていく術もない安原はただおろおろするだけだろう。人に食べさせてもらっている、ということが不安定であると、安原は初めて意識した。できるだけ他人の都合に依らない、自分の腕で食べていける技術を身につけなければ。

二学期が始まってすぐの席替えで、安原は魚住と隣の席になった。魚住にとって、人前で自分の意見を言うのは難しいことのようだ。魚住は班での話し合いのとき、いつも黙ってニコニコしているだけだった。観察していると、男子に対して苦手意識があるのか、びくついてしまうようで、クラスの男子の中では一番慣れていそうな榊の前でも、いくらか緊張しているように見える。

光化学スモッグ予報だか、注意報とやらが出たとのことで、体育の授業が保健の授業に代わった。窓の外は青く晴れ渡っていて、いつもと同じだ。嵐や大雪とは違って、目に見えないものが襲ってきている、ということを体の変調以外で実感するのは難しい。

「浴び過ぎると目がちぱちぱするんだって」

と魚住は安原に言った。魚住の目の形は半月で、ちょっと口角を上げるだけで微笑んでいるように見える。顔の造りがきつくないって得ね、と安原は羨ましがった。

次の体育は通常通り行われた。体育祭にやる競技の練習だ。安原のクラスでは二人三脚に本気を出す、というテーマに絞って、ペアの組み合わせからこだわった。安原は背が低くて走るのが速かったので、同じく小柄で足の速い須藤と組んだ。クラスでは一番速いコンビで、息はぴったりだ。

魚住の方を見ると、組んだ男子とうまく喋れないのか、ずっとまごまごしていた。相方の男子も、女子と喋るのがあまり得意ではない奴だから、二人は全くコミュニケーションを取らないまま、走りはがちゃがちゃだった。

それから魚住は自分たちの走る番が終わると、さっさと足首の紐をほどいて、同じ班の吉野という女子と喋り始めた。会話の内容が安原のところまで聞こえてきた。昨日の晩にテレビでやっていた、前世がどうのこうの、という話題のようだ。

安原は輪廻転生を意識しない。この脳みそが潰えたら、世界は消えてなくなる。世界の外側に、幾つも他人の世界が存在するだろうことは想像できても、自分の世界が再び何かに引き継がれることは、意識しがたい。

「ねえ、ヤスは次に生まれ変わる生き物が選べるとしたら何になる?」

と吉野が突然話を振ってきたので、

「『結構です』って言う。『生まれ変わりません』って」

安原は答えた。すると、

「だめ。絶対何かに生まれ変わらないといけないとして」

食い下がってくるので、

「じゃあ、ミドリムシか何かに生まれ変わって、すぐ死ぬ」

意地を張って子供のような答え方をした。しかし、じゃあ今世で、これからすぐ死ねと言われて死ねるのかと考えると、もちろん到底できない。口先だけである。つまらなかったのか、吉野は安原の答を放置して、自分のことを喋り始めた。

「私は次も人間がいい。今世で人間に生まれてきたことを感謝したいね」

何やら気持ちの悪いことを言い出すので安原は、けっ、と思い。

「生まれ変わりがどうのなんて考えてるの、地球上で人間くらいじゃないの。他の動物はそんなくだらないことを考えるのに生きる時間を使わない」

と言ってやった。

人は世界に外側があることを想像できる。しかし、それは果たして幸せだろうか。無知であることが幸せである場合も、結構あるんじゃないか。と、安原は自分の価値観を疑った。

「優子は?」

吉野は魚住に同じ質問をする。

「考えたことないなあ。何がいいかなあ」

魚住は真面目な顔をして考え始めた。宝くじが当たったら何に使うか、レベルでくだらない質問であることに、安原はばからしくなって、

「アンタは魚でいいんじゃない」

と悪態をついた。

体育祭が近づいてくると、生徒会では大道具を作る作業に追われた。模造紙を何枚も貼り合わせた大きなイラストを描いたり、点数表や門を組み立てるのをみんなでわいわいやった。

体育祭当日、競技出場者の誘導をしている安原のところまで魚住がわざわざやって来て、こんなことを言い出した。

「純と榊君、何かあったのかなあ」

榊と須藤が険悪で心配なのだという。喧嘩だろうか。しかし、榊は放送部で朝からほとんど本部席にいるから、榊と須藤が話していないのは不自然ではないように思えた。

「気になるなら聞けばいいじゃない」

シンプルに安原がそう返すと、

「いや、二人のことはちょっと立ち入っちゃまずいかな、と思って」

魚住はもごもごする。

「そうね。まあ、ほっときゃすぐ元に戻るわよ」

「うん……。ヤス君って、もっちーと仲良しだよね」

いきなり魚住は話を変えてきた。この頃では、魚住は安原のことを打ち解けた感じでヤス君と呼んでくれるようになったのだ。もっちー、というのは望田先生のことである。

「そうよ、ぼくは望田先生が好きなの」

安原はきっぱりと言って口角を上げた。

「そっかあ……。ヤス君、二年生の頃からもっちーのクラスだもんね」

と魚住は声を小さくして、

「先生を好きなのって、辛いよね」

同情めいたことを言ってくる。どうやら望田先生に恋していると勘違いされたようだ。しかし、訂正はしなかった。これが広まって、他人から恋愛感情を向けられることがなくなれば、しめたものだ。

「誰にも言わないよ」

魚住が真面目な顔をするので、

「別に言ってもいいわよ」

前にも二人でこんな遣り取りをしていた、と安原は可笑しくなった。

体育祭が終わる頃には、榊と須藤はいちゃいちゃしていた。仲直りしたのだろう。

「ほらね」

安原が魚住をちらっと見ると、

「あはは」

と魚住は目を三日月型にした。

体育祭が終わると、生徒会ではすぐに文化祭の準備が始まった。今年の舞台発表は生徒会の数人で扮装をし、ちょっとしたコントをやって、その役柄のままでその後の司会進行をすることに決まった。安原は女装をする。それをクラスに戻ってから言うと、須藤が制服を交換しよう、と申し出てくれた。放課後、試しに制服を着替えて、かつらを被ってみせると、ウケた。

「じゃーん、オレは男装」

安原の学ランを着た須藤は、何度もくるくると回ってみせた。

恋愛を知らない安原にとって、人間関係のカテゴリーの中では友情が至高だ。自分と仲良くしてくれる人を大切にしよう、と安原は思う。文化祭当日、安原は朝早く来て、ジャージで登校してきた須藤と制服を交換した。須藤はわざわざジャージから学ランに着替える必要はないのだが、進んで学ランを着たがった。須藤には安原の制服は少しサイズが大きい。須藤が入学したての一年生男子のように幼く見える。

「ヤスはセーラー服似合うよね。男子にモテるかもよ」

須藤は腕を組んで呻った。須藤も他の女子と同じように俗なことを言うんだな、と安原は軽くがっかりした。体育祭の前にも似たようなことを言われたのだ。リレー選手に選ばれたことを面倒くさがる安原をなだめるために、須藤が「女子にキャーキャー言われるよ」と言ってきたことがあった。女子にモテたいなどと考えたことは一度もないのに。何でも恋愛に結び付けられるのは、安原にとって窮屈だった。

「それは困るわね。ぼく、そういう趣味じゃないし」

「ヤスは女子が好きなんだ?」

あらためて性的指向を尋ねられると、安原は困惑して、

「恋愛は気持ち悪いって思う……」

と首を振った。すると、

「それは分かる気がする。オレもそうだもん」

須藤が同意するので、安原は驚いた。聞いてはいけないことを聞いているような気がして、どきどきしてしまう。

「え、榊は?」

恐る恐る尋ねると、

「榊とは長いこと友だちだったから、最初に好きだって言われた時はびっくりしたし、気持ち悪かった。オレ、女に見られるのは、未だに好きじゃないんだと思う。女ってのを抜きにして、自分のことを見てほしい」

そう言って須藤は頭を掻いた。

「じゃあ、どうして榊と付き合うことにしたの?」

「うーん、オレも好きになっちゃったから……。オレさ、榊のこと男だから好き、男っぽいところが好きなんだよ。矛盾してるよね、自分勝手だなって思う」

性別というものは不思議だ。人が何かに憧れるときは、その何かを手に入れたいとか、自分もそうなりたいとか思うものなのに、男女に関してはそうでない。男らしさが素敵、と言う女は男になりたいから言うのではなく、女の立場から、女らしさを保ったまま男らしさを求めるのだ。自分の中に男の要素を取り入れない。安原にはこういったことが不可解だった。だから、男性的なものに憧れて、自分も男性的になりたいという須藤が男っぽい人を好きになるのは自然なことのように思えた。純粋な憧れから来る恋ならば、安原にも理屈で理解できる。

「須藤、男になりたいって言ってたものね」

「うん。この格好はどう? オレ、似合ってる?」

須藤は学ランの袖をつまんで、ぴっと腕を伸ばす仕草をする。

「今は男に見えるわ。よく似合ってる」

安原が評すると、

「ホント? やった」

須藤は首を襟の中にすくめるようにして、笑った。それを見て安原はきゅんとした。友情の中に恋愛のようなものが混じってきそうになったのだ。しかし、須藤は榊の恋人である。安原は自分の心に恋する気持ちが芽生えそうになったことを自覚して、慌てて摘み取った。それでも今、恋愛っぽいものを観測できた、というだけで安原にとっては収穫だ。

それから榊に化粧を施してもらい、すっかりドラァグクイーンになった安原が舞台に上がると、それだけで会場が沸いた。安原の脳は見られる快楽に痺れた。そして、それを女子に恋をされているときの「見られる不快感」と比較してみると、やはり自分には恋愛は必要ない、という結論に落ち着くのだった。

「安原先輩、あの、さっきのすごく面白かったです!」

安原が舞台袖に戻ると、女子から声を掛けられた。

「あら嬉しー、ありがと」

安原は役柄のままの口調で返した。女子は放送部の人のようだ。ふと安原が思い立って、

「まだ明日のラジオ放送のリクエスト受け付けてる?」

と尋ねてみると、

「はい。今日の放課後集計して、CD借りに行く予定です。大丈夫です」

放送部の子は早口で言って、元気良く頷いた。安原がリクエスト曲を伝えると、その子は素早くメモを取る。舞台袖の細い灯りがメガネの縁に反射して、その奥の瞳はきらきらしていた。

「あっ、私、都秋乃っていいます」

慌ただしくメガネの子は安原に自己紹介をした。

「都さんね」

「都が名字で、秋乃が名前です」

確かに苗字と名前が逆でも違和感がない。念を押したい気持ちも分かる、と安原は愛想を返して頷いた。

次の日にはちゃんと安原のリクエストした曲が流れてきた。曲紹介は多分、昨日の都という子だ。

この頃、安原は自分の進路が見えてきていた。ちゃんと働いて自力でごはんを食べる、ということを目標にして、手に職をつけることと、それに自分の得意や好みをくっ付けて考えると、理工系の勉強をしたいという思いが湧いてきたのだ。家業の不動産屋は継がない。たくさんの社員を抱えている会社だから、自分が継がなくたって会社がなくなるわけではなかろう。そもそも、父親から息子に継がせたいという意思表示をはっきりされたこともなかった。安原は県内の高専に進学しようと決めた。理科の教諭である望田先生からのアドヴァイスもあった。実家からは通いにくいので、寮に入ることになるのだが、それも決め手だった。これで甘えを脱ぎ捨てることができる、と光明が差してきた。もちろん親の金で学校へ行かせてもらうのだから、思い込みの部分がほとんどなのだろう。それでも実家を離れるというのは、今の安原にとって、希望しかなかった。

冬の近づいてきた十一月のある日、安原は魚住からとんでもないことを告白された。

「私、水島先生のことが好きなの」

魚住は帰り道で、数学教員の名前を口にして頬を赤くした。どうして突然そんなことを言い出したのかと問うと、安原が以前、望田先生のことが好き、と言ったから、安原に自分と近いものを感じたのだという。

「夏に告白したんだけど、振られちゃったんだ」

と、魚住は更に驚くべきことを言う。水島というのは魚住の一年生の頃の担任だ。すらっと長身で、顔はまあまあかっこいい、ということに女子の間ではなっている。ともかくも女子に人気のある教員だ。水島は、男が苦手で怯える魚住に対して、緊張を和らげるように優しく接して、魚住の相談にも乗っていたそうだ。その頃からずっと魚住は水島に片思いをしているという。安原はわけが分からなくなった。恋愛もよく理解していないのに、教員を恋愛対象にするなんて更に理解ができない。安原にはどう頑張ってみても、望田先生を恋愛の相手として捉えることはできないが、魚住はそういうことができるのだ。しかし、自分に勉強を教えてくれる人を好きになるなんて、師弟愛を恋愛とはき違えているだけなんじゃないのか、と安原は訝った。ただ、世の中には教師と生徒で付き合ったり、結婚したりしている人たちもいるらしいので、安原の理解の及ばない世界がそこに広がっていて、魚住はその世界の住人なのだろう。

「ヤス君の話だけ聞いて、私のことを言わないのはフェアじゃないよね」

体育祭のとき、安原は魚住に自分の秘密を打ち明けたわけではなく、ただふざけて喋っていただけなので、魚住がそう言ってくれるのには申し訳ない気持ちになった。あるいはそうではなくて、魚住は自分の話を聞いてほしくて、安原の話を引き合いに出しただけなのだろうか。

「片思いっていうのはいいとしても、告白ってどういうことなの? 教員と付き合えるとか思ってたの?」

安原はきつい口調で尋ねた。すると魚住はしょんぼりして、

「付き合うとか考えてたわけじゃなくて……好きだって気持ちだけでも伝えたかったの、それで振ってもらって、すっきりしたかったの」

と眉根を寄せた。

「好きだって伝えるのは、付き合いたいっていう意思表示とは違うの? 付き合いたいわけじゃないけど、あなたのことが好きです、って言うのも有りなの?」

「有り……だと思うんだけど……」

「振られるの前提で告白するっていうのも有りなのね」

安原は質問魔になった。

「うーん……」

ぐいぐい聞いていくせいで、魚住の声は小さくなっていく。そうして歩いていると、やがて魚住の乗る路面電車が電停に入ってきた。

「明日からえびす講だね」

車体の広告が目に入ったから、魚住はそう言ったのだろう。この町のえびす講は繁華街一体の大きな祭になる。

「そうね、行くの?」

「ヤス君、一緒に行く?」

魚住が路面電車に乗り込んで振り返りざまに言うので、安原は反射的に頷いた。きっと魚住は安原に話し足りないことがたくさんあるのだろう。

約束した日、安原は三越のライオンの前足をすべすべと触りながら、魚住を待っていた。ウールのピーコートを着込んできたが、少し早まった、と安原は後悔していた。歩いて来たので体温が上がってしまい、暑い。目の前の電停に路面電車が停車した。中からたくさんの人が溢れ出てくる。その中に魚住がいた。すとんとした白地のプリントワンピースに紺色のジャケットを羽織っている。脚を出して、寒くはないのだろうか。魚住は、まだ安原には気付いていないようで、安原の姿を探してきょろきょろしている。自分を探す人の視線を観察するのは面白い。安原が手を上げると、魚住と視線が合った。

「はぐれるかも」

「はぐれたらさっきのライオンに集合しよう」

二人で言い合った。

「腹ペコだ。何か屋台で買って食べようよ」

と魚住がにっこりする。アーケードの下には祭の看板がぶら下がっていて、飾りのついた大きな熊手が並べられている店もある。中央通りは歩行者天国になっていて、舗道には屋台がひしめいていた。はしまきとフライドポテトを買って、食べながらだらだらと歩いた。

「歩きながら食べるっていう行儀の悪いことを堂々とやっても怒られないねー」

と魚住は、はしまきにかぶりついている。

「アンタ、ソースつけてるわよ」

安原が自分の口の端を指して指摘してやると、魚住はさっと口元を手で隠して、

「歯に青のりが付いてても言わないでね、気になって喋れなくなっちゃうから」

と慌てた。それを見て、安原は思い出した。

「そういえば、この前の授業で水島が『他人と食事をするのはエロティックだ』説を唱えていたじゃない。人前で欲望を満たすという行為がエロ、口の中を見せるっていうのもエロ、だから好きな人と食事をするとき、どきどきするって」

安原は下ネタには一切付き合わないが、対象と行為のない概念としてのエロティシズムならば感じられるのだ。

「言ってたね」

「あと、酒が嫌いっていう話は知ってる?」

「何それ? 知らない。教えて教えて」

魚住は好きな人について興味津津という様子なので、安原は自分の持っている水島情報を取って出した。魚住の二年生の頃の数学は水島ではなかったから、授業中のフリートークのネタでは、まだ知らないことがたくさんあるらしかった。

「酒自体、味が嫌いで下戸らしいんだけど、それよりも酒飲みが嫌いなんだって。酔っ払いが大嫌いだから、夜に酒を出す店に行きたくないって言ってたわ。『酒を飲んでちょっとでも正気が失われるのを、どうしてみんな怖いとか恥ずかしいとか思わないんだろう。先生は自分が酔っ払ってるところなんか、恥ずかしくて見せられない。他人の酔っ払ってる姿もがっかりするから見たくない』って。だから職場の飲み会も行かないらしいわよ」

「へえ、先生ってお酒飲めないんだ」

魚住は嬉しそうな顔をする。

「なんか、自分が他人にどう見られるかとか、他人にがっかりしたくないとかさ、他人に対するあこがれが強い人なのかしらね、水島って」

「うーん」

「あいつ、結構こういうのを生徒にあけすけに話すわよね。職場の飲み会に行かないとか」

「そう、水島先生ってちょっと子供っぽいところがあるんだよね」

三十手前の男に向かって、子供っぽいと評する魚住は何なのか。女子のかわいいセンサーはばかになっているから何にでも反応するのか。

「女子って大人の男でもかわいいって思うことがあるの?」

「あるよ」

「水島はかわいいの?」

「うん、まだそう思っちゃうね……」

「ぼくは犬とか猫とか赤ちゃんとか、イノセントなものしかかわいいと思わない」

否定的な物言いになるのは、先生に恋をするのは不健康である、という思いが安原にあるからだ。魚住は、

「そうかー」

と肯定でも否定でもない相槌をうった。

しばらく歩いていると、魚住はゲーセンの前の人だかりで足を止めて、そこで実演販売されているおもちゃに見入った。厚紙で出来たちゃちな人形が、生きているみたいに踊ったりジャンプしたりする。「命令をしてみてください」とおっさんが客を煽るので、魚住は「ハイキン!」と叫んだ。すると人形はぺらぺらと背筋をしてみせるのだ。魚住は「すごいね、すごいね」ときゃあきゃあ言っている。安原はその人形がインチキだと知っているのだが、魚住の様子を見ていると、微笑ましくなるのだった。魚住はその人形を本気で欲しがった。安原は仕掛けを知らない振りをして、五百円の人形を二人で半額ずつ出し合って買うことにした。ここで一緒に来ている相手が男だったらまず出さないだろう、と安原は思う。こういうときに、女子を喜ばせるために買ってあげるのが男だろうか、とも。それからすぐに近くのハンバーガー屋に入って袋を開けて、人形の仕掛けを知った魚住は「うわあ、騙されたー」と嘆いた。

「操り方を完璧にマスターして学校でやれば?」

安原が言うと、

「そういうのはヤス君の方が得意そうだよねえ」

魚住が勧めてくるので、安原は首を振った。

「ううん。魚住が陰で人形操って、ぼくが狂言回し。その方がしっくりこない?」

「ああ、そうかも、そっちだ」

そうやってしばらく話していると、

「あ、純!」

急に魚住が中腰になって、安原の背後に手を振った。なんだろう、と思って安原も振り返る。

「さっき外を榊君と純が歩いて行ったよ。でも気付かれなかった」

「ふうん、デートか」

と口にして、安原は考えた。魚住とこうして遊びに来ているのは、デートだろうか?

「私、ヤス君はすごいと思うんだ。謝るのって難しいと思う」

それから魚住はまたいきなり話を変えてきたので、安原は、何のこと? と尋ねた。

「一学期の図書の本のこと」

「ああ、あれはぼくが悪かったもの。ごめんね」

「ううん、蒸し返つもりはなくてね、本当にすごいなって思ったの」

「そう?」

安原は気性が激しい上に失言が多いし、考えなしに喋ることもある、意見を翻すことも多いから、後になって謝るというケースが少なくなかった。

「後から、あの時は悪いことしたなって思っても、私なかなか謝れない」

「謝るタイミングもあるものね。なあなあにしちゃうことって確かにあると思うわ」

「そうなんだよね……。そう、私、榊君に謝ってないことが一つあるの」

魚住は榊と須藤が付き合い始めるようになったときのことを話してくれた。二年生の十月頃のことだ。榊が須藤に告白して、須藤はそれを断って一度は口もきかなくなったらしい。だが、しばらくして須藤も榊が好きだということに気付いて、今度は須藤の方から榊へ告白したのだという。その須藤が告白するという日に、魚住は榊にこんなことを言われたのだそうだ。

「須藤のこと、よろしく頼むよ。あいつと仲良くしてやってくれないかな?」

それを聞いた魚住は、榊に対して柄にもなく強く言い返してしまった。まるで須藤のことを子ども扱いしているようで腹立たしかったというのもあるが、それ以上に、榊が須藤のことを振ったからこんなことを言うのだ、と怒ってしまったのだそうだ。

「後になって純に聞いてみたら、その時はまだ、純は榊君に告白してなかったんだって。私が勝手に勘違いして、榊君にキレたんだ。それからちょっと榊君と話しづらくなったよ」

「でも今は榊と普通に話すでしょ?」

「榊君は優しいから、普通にしてくれてるんだと思う。でも、もしかしたら、今でも私嫌われてるかもしれない」

「榊ってそこまで根に持つようなタイプかしら。それに、その榊の言い方もあんまり良くないとぼくは思うわよ。榊がどうこうしなくたって、須藤は須藤でちゃんと友だちと仲良くできる奴だと思うもの」

「そうだよね」

「で、どうするの? 謝るの?」

「うーん……」

「榊はもう気にしてないかもしれないけど、魚住が気になるなら謝ればいいじゃない。謝って何か減るもんでもなし、榊の方だって謝られてすごく困るわけでもないでしょ」

「そうだね」

話が一段落したところで店を出て、通りを二人で歩く。日が傾いてきた頃から、人がどんどん多くなってきた。歩行者天国で何かイベントでもやるのだろう。アーケードを抜けるのにも、人に揉まれる。そこで安原は段々気分が悪くなってきた。見知らぬ人と体が密着しているのに、堪えられなくなってきたのだ。鳥肌が立って、手足が冷たくなってきた。

「ヤス君、大丈夫?」

魚住が顔を覗き込んでくる。安原は頷いたが、その間も他人に体を撫でられているような気がしていて、吐き気を催した。

「パルコの方まで抜けたら、ちょっと座って休もう。それまで頑張ろう」

魚住は安原を庇うように歩いてくれた。安原とさして背丈の変わらない魚住だが、今はとても大きな女の子に見える。魚住に縋りながら、ほうほうのていでアーケードを抜けて、パルコの裏の広場にある階段に腰を下ろした。

「情けない……」

安原は呟いた。不甲斐なさに泣きたくなった。

「ううん、人が多かったもんね。人間のにおいしたもんね」

魚住は昔話に出てくる鬼みたいな台詞を言う。それから、さっと立ち上がって、水を買ってきて安原に渡してくれた。

「ありがとう」

「いえいえ」

そこで安原は一部分だけ魚住に秘密を打ち明けてみた。

「人と密着するのが苦手なの。むやみに体に触られるのが昔から駄目で……」

「ええっ、ごめん! 私、いっぱい触っちゃってた」

「大丈夫よ。アンタは大丈夫だから」

言ってしまった後で、変な意味に取られていないだろうか、と安原の頭の中はぐるぐるし始めた。魚住に触られたい、という意味に取られるのは不本意だ。

「女は、まだ、平気なの……」

そうフォローしてみたものの、女に触られるのだって、たぶん苦手だ。性的な意図をもって触られるのは全部苦手だし、どういう意図があるのか分からない接触も苦手だ。

しばらく休んでいると、安原の気分は回復してきた。それから立ち上がって、人混みを避けた回り道で、電停まで魚住を送っていくことにした。今日一日で、魚住とすごく仲良くなったように感じる安原は、

「あのね、ぼくも魚住に謝らなきゃいけないことがあって」

罪悪感から正直に話し始めた。

「魚住が水島のことを打ち明けてくれたのは嬉しかったんだけど、ぼくは望田先生のことを恋愛感情で好きって言ったつもりはなかったの」

「え、そうなんだ……」

「なんか、騙したような格好になっちゃって、ごめんね」

「ううん、全然」

魚住は首を振った。

「ぼくは誰かを好きになったことがないから、魚住にアドヴァイスできるようなことは何もないのよ。でも、話を聞くくらいはできるから、もちろん絶対誰にも言わないし」

「うん」

「しんどかったら、愚痴ってくれて構わないから」

「ありがとう」

「魚住には今日世話になった借りもあるし」

「そんな、大したことしてないよ」

「ううん、助かったわ」

「そう、それなら良かった」

「電車、来ちゃったわね……」

電車にみっしりと人が乗っているのを見るだけで、安原の心は重くなった。しかし顔には出さないよう、魚住に笑顔を向けてみた。魚住が乗り込んだ電車のドアが閉まる。銀色のドアの縁に映った自分の目は、やっぱりうまく三日月にならずアーモンド形だ。

>>〔三〕へ続く

Jul24, 2012

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