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〔三〕ミーコ

冬休みが始まる前の三者面談で、安原は母親に泣かれた。進路のことを親に相談するタイミングを計りかねたまま面談に臨んだところ、母親は安原がまさか高専に行こうとしているなどとは思いもしなかったのだろう、しくしく泣き出して話にならなかったのだ。これには望田先生も参って、「附属高校も今の成績なら合格は五分五分です。一度ご家庭で話し合って……」と母親の意向も尊重したふうなことを言って、早めに切り上げた。実際、安原の成績は良かったので、県で一番偏差値の高い附属高校でも行けないことはないのだ。しかし、高専への進学については親が泣こうが決心を曲げるつもりはなかった。後日、どうして親と話していなかったのかと望田先生に怒られた。

父親も高専への進学に反対した。今まで息子のことには無関心を貫いてきた父親だったが、このとき初めて安原の生き方に干渉したのだ。今更父親ごっこがしたくなったのかしら、と安原は反発した。父親は家ではいつも不機嫌そうに黙っていて、たまに母親へ一言二言単語だけで口を利くような人だ。しかし、金を稼いでいる、家族に飯を食わせている。どんな商売でも、人間性を疑う奴でも、働いているというだけで価値がある。どんなにお行儀良くして、人に好かれようとも、何も生み出さない人間は無価値だ。安原の価値観は極端だ。この価値観は、尊大に振る舞う父親と、不平も言わずに家のことをこなして、たった一人の息子に過干渉を注ぐ母親によって作られたものかもしれない。安原は今まで以上に家に居るのが苦痛になった。ギターを背負って、河原へ自転車を走らせる。息を吐いて指先を温めながら、無心で弾いた。

ある日、河原に女の子が転がってきた。

安原が川面に向いて、音叉を膝で打ってギターの調弦をしている最中のことだった。突然安原の背後で自転車の倒れる音がした。と同時に「ぎゃっ」という声がしたのに驚いて斜面の方へ振り返ると、人がごろごろ転がり落ちてくる。傾斜の途中には投げ出された自転車と鞄。その人は転がりきったところにうつぶせで倒れた。安原はギターを置いて、駆け寄った。

「大丈夫ですかー?」

声をかけながら近づいていくと、ぼさぼさ髪の女の人はむくりと起き上がって、眩しそうに細目になりながら安原を見上げた。安原が枯れた雑草を踏み分けると、足の下でぱきんと音がした。

「あ」

反射的に足を上げると、踏んづけた黒縁メガネのテンプルが逆関節になっていた。

「本当にごめんなさい……。修理代、出すわ」

安原は平身低頭した。

「元は私の不注意ですから、いいんです。替えのメガネも家にあるんで」

彼女は、なんと文化祭で安原のリクエスト曲をかけてくれた、放送部の都という子だった。たまたま通りかかり、河原でギターを弾いている人がいる! とよそ見運転をしていたところ、ハンドル操作を誤ったらしい。

「練習の邪魔をしてすみません」

今度は都の方から謝ってきた。しかし、そんなことは全然、いいのだ。安原はとんでもない、と首を振った。

「何の曲を練習してたんですか?」

「何ってこともないけど、さっきまでチューニングしてて……」

安原はなんとなくギターを構えて、開放弦を鳴らした。

「もし良かったら、何か弾いてもらえませんか?」

安原は頷いて、

「じゃあ、ビートルズを」

『ブラックバード』という曲を弾き語った。ギターとボーカルだけのシンプルな曲だがかっこいい。ポールが靴を鳴らす音の代わりに、都は手拍子を打ってくれた。途中の「曲の終わりと見せかけてブレイク」のところは十分に間を取って、「タメてるだけだよ、終わりませんけど?」と二人で顔を見合わせた。都はこの曲を知っているのだ。

「よくここで練習してるんですか?」

「うん、家がすぐそこなの。家で練習できないから、ここでやってるの」

「あー、アコギって結構音が響きますもんね」

都は、音が大きくて近所迷惑になるから、という理由と取ったようだ。

「冬休み中は、ここでやってますか?」

「うん、雨か雪でなければ」

「また来てもいいですか?」

安原が頷くと、都はテンプルを押さえながら「良かった〜」と笑った。安原にまた一人、素敵な友だちができたのである。

それから安原が河原で練習していると、何度か都が遊びに来た。使い捨てカイロと、魔法瓶に熱いお茶を入れて来てくれる。

「いつもありがとうね」

と安原が礼を言うと、都は、はっとして、

「私、邪魔じゃないですか? 邪魔ですか?」

と尋ねてくる。

「邪魔じゃないわよ」

「私、ストーカーじゃないですよ」

「分かってるわよ」

都は二年生なので、以前図書室で安原に手紙を渡してきた子と同学年だ。もしかしたら、都はあの一件を知っていて、自分も気味悪がられると恐れてこんなことを言うのだろうか、だとしたら悲しい。

邦楽のあの曲は洋楽のあの曲のイントロパクリ、あの曲のPVはあれのパクリ、あの邦楽アーティストはあの洋楽アーティストの丸パクリ、あれはもはや盗作。都とそんなことを話し合って、キャッキャする。音楽の元ネタ探しというのは、悪趣味で盛り上がる。

また、安原は音至上主義で、歌詞はボーカルという楽器を鳴らすための口実で言葉の意味を持つ必要はない、という考え方なのに対し、都は歌詞のメッセージ性重視派。議論の結果、歌詞に芸術性を見出すなら歌モノは音楽とひとくくりにせず、言葉と音の総合芸術と見なすべき、という止揚的な結論に落ち着いた。

自分の好きなものに関して話すとき、相手の意見を退けたり、打ち負かそうとすることなく、建設的な議論ができる人は少ない。また、「いいよね」と言い合っている限り、好みの合う人同士は仲良くできるものだが、少しでも好みがずれてしまえば、その溝を埋めるためにどちらかが無理をしたり、好みのずれには触れないでやり過ごさざるを得ない。都は安原と好みが合うとは言えないが、安原は都との議論を好ましく感じる。こういう会話がしたかったのだ、気が合うというのはこういうことだ、と安原は確信した。

「好きな小説は何ですか?」「好きな漫画は?」「好きな映画は?」と都は音楽のみならず安原の好きなものを聞きたがった。安原は自分の好きなものについてはいくらでも話せた。「都さんは?」と質問を返すと、都も負けじと自分の好きなものについて語りまくった。音楽以外では、好きなものが全くかみ合わない二人だった。都はいわゆるサブカル系で、安原は男の子趣味。

「好きなもので自分を広げていくんです。他人の創作物が自分の血や肉になるんです」

都は抽象的なことを言うのだが、安原はそれを感覚で理解できる。

「そう、自分の世界から他人の世界を覗き見るのよね。それが自分の考え方のパターンとは全然違ってたりして、そこから影響を受けたがったり、嫌な感じがして受け入れられなかったりするのよね」

「他人の脳みそは宇宙ですよね。人の数だけ宇宙がありますよね」

「宇宙、カオス」

「そうそう」

形而上の話になった。

都からCDも借りた。安原が文化祭でリクエストしたアーティストのアルバムを、都は他にも持っていると言う。それを河原に持ってきてもらった。借りたまま、三学期が始まった。

そういえば、都のクラスを知らない、と安原は気付いた。お互い、頭の中のことは喋りまくったのに、自分の属性を何も喋っていない。自分の所属、出身小学校、血液型、しかしそんなことはどうでもいいのかもしれない。そんなものは、自分が誰とコミュニケーションを取りたいかを決めるとき、自分と似た属性の人に対象を絞るために使うくらいだ。他人の世界に触れるときには、年齢や性別は必要ないのだ。安原はもはや男でなくてもいいのだ。脳みそだけの存在だ。

思考が舞い上がっていったので、安原は首を振って、おとなしく榊へ都のクラスを尋ねることにした。

帰りのホームルームで、望田先生が注意事項としてこんなことを言った。最近、この辺りに変質者が出るという情報があるので、女子は帰りが遅くならないように、できるだけ複数人で帰るように。

「男子はいいんですかー」

と誰かが茶々を入れると、先生は、

「男子も気をつけて。何かあったら、攻撃せずに逃げること。すぐに学校に連絡すること」

と言う。安原は悪寒がした。

放課後、須藤が後輩に聞いたという話をしてくれた。

「自転車の痴漢が出るらしいよ。後ろから音もなく近づいてきて、まず一旦通り過ぎて顔を確認するんだって、それで、引き返して、またすーっと近づいてきてさ、お尻を触って逃げるらしい」

須藤は身振り手振りで説明する。

「まず顔を確認するってのが、地味にえげつない」

と榊は眉をひそめた。

「須藤はそいつ、見たことないの?」

安原は尋ねる。

「オレはない。でも、オレなんてスルーでしょ。こいつの尻は触りたくねえな、って思われるんじゃない? ま、触られたって、オレは自転車くらい全然追いつける。追いついて、自転車バチーンと蹴飛ばす」

須藤は威勢がいい。

「やめとけよ、そういうの。危ないから」

と呆れる榊は須藤が心配なのだろう。

「魚住は大丈夫?」

安原は魚住に尋ねてみた。すると魚住の表情は曇った。

「電車で、たまに……」

魚住は小さな声で言う。それを聞いて、安原はぞっとするよりも怒りが湧いてきた。

「歩いて帰んなさいよ、ちょっと距離あるけど」

安原が語気を強くすると、魚住は、

「自転車の痴漢にも遭ったことある……」

と更に追い打ちをかけるようなことを言うのだった。

自転車通学は校則で禁止されている。だから見つかると厄介なのだが、それでも安原は帰りに魚住を家まで送るため、自転車で学校へ行った。放課後、魚住はその自転車の荷台に座って、遠慮がちに安原につかまった。

「何よ、痴漢って。ふざけんじゃないわよ」

安原がぷりぷりと怒りながらペダルを漕いでいると、

「ごめん……」

と魚住が謝ってきた。

「アンタに言ってるんじゃないわよ。大体、魚住がなんで謝んの」

「いや、痴漢によく遭う、なんて自慢みたいに聞こえたかもって」

「は? 自慢したいようなことなの?」

「いや、全然。私は痴漢なんて嫌でたまらないけど、こういうこと言うと自慢と取る人もいるんだよ」

女子同士のやっかみか、ばかばかしい。

「バカじゃないの? ああ、もう本当バカ」

いらいらするから安原のペダルを踏む足にも力がこもる。つい魚住に当たり散らしてしまう。

「面倒くさいこと言ってごめんね、ヤス君」

「謝んなくていいから感謝でもしときなさいよ」

「ありがとう」

走っていると、下校中の生徒からの視線が痛い。魚住はともかく、安原は全校生徒に面が割れている。こうして自転車通学を続けていたら、近いうちに誰かが学校にチクるだろう。

「朝の方が心配だわ。電車、混むでしょう?」

「うん……」

「朝も迎えに行くわ」

「え、でも、悪いよ」

「全然。まあ、もしチャリ通が学校にばれて怒られたら、魚住はぼくが無理やり乗せて来たってことにして、それからは、ちょっと時間かかるけど徒歩に切り替えてさ」

「そんなの、できない」

「どうして?」

「だって、ヤス君のせいになんてできないし、ヤス君の家、逆方向なのに悪いし」

「生活指導からは、毎度服装のことで怒られ慣れてるわ」

安原は学ランの下に着ているパーカーのフードを、襟のところからいつもぺろんと出している。

「それに逆方向ったって、高々三、四キロのもんじゃないの。大したことないわよ」

「でも……」

「でもでも〜、だってぇ、でもだってぇ」

安原は変な節をつけて歌いだした。

「何、それ?」

「相手の否定を封じ込める歌」

次の朝も、自転車を漕いで行く。魚住の通っていた小学校は、市内で一番賑やかな所に建っている、生徒数の少ない小さな小学校だ。その狭い敷地を囲う、クリーム色の高い壁、そこをぐるりと回って、魚住のアパートへ。

「おはよう、ヤス君。それ、どうしたの?」

魚住は自分の肩の辺りで手をひらひらっとさせる。安原の背中から伸びているギターのことを指しているのだ。

「学校で練習しようと思って」

安原はギターが横に来るように背負い直した。ストラップが一本になるよう改造したスクールバッグを反対側にたすき掛けしてバランスを取る。後ろには女の子。車幅が膨らむ。

「ヤス君、ギター上手なんだよね」

「ううん」

「今度、聴かせて」

「うん」

まだ活動を始めていない街の空気は、いつも灰色がかっている。閉じたシャッターの前の吐瀉物をひょろひょろ避けて進んでいく。

何故ギターを学校へ持って行くことにしたのかというと、都が「河原は寒くて指も痛くなるから、放送室で練習しませんか?」と言ってくれたからだ。部活がない曜日だけ、安原はそれに甘えさせてもらうことにした。

都が放送室の鍵穴に鍵を差し、ノブを回して鉄のドアを開けてくれた。

「どうぞ」

「どうも、おじゃまします」

安原は恭しく頭を下げた。

「あ、土禁です」

「はい」

一瞬、土禁か? と言葉の意味が分からなくなったが、フラットな入口に上靴を脱いで揃えて上がる。入ってすぐのところにホワイトボードが掛かっていて、落書きがしてあった。

「次期部長ミーコ様」

安原はボードの真ん中に大きく書いてある文字を声に出して読んだ。すると、都が、

「あ……、いいです、それは、読まないで」

ともじもじし始めた。次期部長ミーコ様の周りにもいろいろある。「榊」と書かれたへろへろの人型に吹き出しがつけてあって「掃除しろ」とか、「朗読大会入賞!」だとか、顧問らしき禿げ頭の似顔絵の鼻の穴からエクトプラズムが出ているのとかが色マジックで描いてあって、なかなかサイケデリックだ。

「このミーコって都さんのこと?」

「はい」

キュートなあだ名だ。

「ぼくもミーコって呼んでいい?」

「え、はい、はい」

都は二回頷いた。

「ぼくのことはヤスで」

「え、え?」

「ヤスって呼んでくれる?」

「は、じゃあ、ヤス先輩で」

呼ばれた安原はにっこりした。

名字由来のあだ名は女子に対しても気兼ねなく呼べる。ミーコとヤス、名字由来のあだ名が名前っぽいチームである。

それから放送ブースに入らせてもらうと、安原の胸は高鳴った。壁のCDラックにCDがびっしり、箱の中にもLPがびっしり。ミキサーの両側には新旧のプレイヤーが積み上がっていて、全部生きているという。ミキサーの奥に広がっている配線はもはや宇宙だ。

「すごいわね、放送室ってこんなになってたんだ」

安原は感嘆してきょろきょろしながら、

「いいなあ、ここに住みたい」

と感想を口にした。

「私も、この秘密基地っぽいというか、狭いところが好きなんです。押し入れに入ったらテンション上がるじゃないですか」

同意を求められたが、安原は和室にくっ付いている二階建ての押し入れというものに入ったことがなかったので、曖昧に頷いた。

「ここ、勝手に私物置き場にしちゃってるんですけど」

と、都が机の引き出しの取手に指を掛けて、重そうに引っ張り出した。お下がりと思われる教員用デスクの引き出しの中には雑誌が、これもまたびっしりと入っていた。

「音楽雑誌?」

「はい、家に置いとくと、こないだ勝手に捨てられたので、大事なのはここに避難」

見ると、雑誌の種類はバラバラだし、特定のアーティストのグラビアを集めているラインナップでもない。

「これは何セレクトなの?」

「企画記事が良かったのとか、好きなライターさんの記事でお気に入りのやつとか、あとは自分の書いたハガキが載った号とか」

「ハガキ職人だ」

「そんな大層なもんじゃないです」

謙虚する都は目を細めて、

「私、音楽ライターになりたいんです」

と自分の夢を宣言した。好きなものに対してむき出しな人というのは、眩しい。

都は雑誌をめくって、「これ、私です」と安原に見せてくれた。アルバムレビューを投稿するコーナーがあって、そこに都の名前と文章が載っている。ペンネームではなく本名で投稿しているあたり、都の本気がうかがえた。平易な言葉で書かれているのだが、深い。ちょっとひねくれた目線がユニークだ。安原の知らないアーティストだったが、都の文章を読むと曲を聴いてみたくなるのは、それがアーティストの人となりや来歴に依らず、ただ音楽を聴くときの気持ちの動きだけを真面目に追って言葉にしているからだろうか。ともかくも、安原は感動してしまった。

「うわあ、ミーコ、天才。情緒的なことを論理的に書ける人って尊敬するわ」

安原は素直に褒めた。都は照れているのか、くねくねした。

「あ、自分の話ばっかりしちゃってすみません。練習しましょう、ギター弾きましょう」

都はせかせかとパイプ椅子を開いて、安原に勧めてくれた。安原はギターケースからギターを取り出して、椅子に腰掛けて、音叉を打った。

「Fってやっぱり痛いですか?」

と都が安原の左手をじっと見つめた。弦の押さえ方で、セーハというのがある。複数の弦を一本の指で押さえる奏法だ。Fというコードを鳴らすためには、弦を人差し指で全押さえする必要があるのだが、慣れないうちは確かに痛い。Fが難しい、というのは知識として都も知っているのだろう。

「最初は痛かったわよ。今はまあ、大して力入れなくてもちゃんと鳴るけど」

「男子は握力強いから」

「握力って関係ないと思うのよ。30なくてもFは押さえられるわよ」

安原は都に、弾いてみて、とギターを渡した。

「え、え、どうやるんですか」

「一番目のフレットに人差し指を置いて……あ、棒のすぐ上だと音が止まっちゃうから、そう、ちょっとずらして……」

都がフレットの真上に指を被せるような押さえ方をしたので、安原はちょっと笑った。ギターのフレットはただの目印の線ではなくて、音階を決める山だから、普通は頂点に弦が引っかかるように山の手前を指で押さえる。しかし、「フレットに人差し指を」と言っても、弦楽器初心者は経験者と同じようには受け取らない。専門用語を使わずに、誰にでも分かる言葉で短く正確に伝えることは難しいのだ。イメージを伝えるというのは、もっと難しいだろう。それでも、都の見せてくれたアルバムレビューは安原に伝わった。都のイメージが自分の頭に入ってくるのを確かに感じた。

「いててて……指がハムに……」

「人差し指自体には力入れ過ぎないで、裏の親指で支えて、中指で踏ん張る感じ」

雰囲気仕事を上手く説明するのはやっぱり難しい。都が右手で弦を撫でると、鈍い音ばかり鳴った。

「ま、いきなりFからやり始めると気が萎えちゃうわよね」

安原は気分を変えて、ギターケースに入れてあるギターの教則本を引っ張り出すとぱらぱらとめくった。安原が中一の頃に買ったもので、クラシックギター向けの本だ。楽譜というのは面白い。一度読み方を覚えてしまうと、楽譜に視線を滑らせるだけで音が鳴るのだ。小説を読むように、楽譜が読める。

「インクの染みから意味が出てくるってすごいよね」

と比喩的に口にした安原の言葉のイメージはかなり正確に伝わったらしく、

「ですよね、文字も楽譜もイメージの変換機としては素晴らしいですよね。文字や楽譜の体系を考えた人はすごい」

と都は呻った。それからこんなことも言う。

「芸術家っていうのは自分の頭の中のイメージを分かりやすく他人に伝えられる術を持った人だと思うんですよ」

「物の見方、捉え方がオリジナルでぶっ飛んでる人ってのもあるんじゃない?」

「うーん、私は、誰もがユニークでオリジナルだと思ってるんで。芸術性ってそこにあるんじゃなくて、どれだけうまく変換機を通せるか、新しい変換機の使い方を考え出せるかだと思うんです。そういうのって例えば楽器の奏者だと、技術の高い人、表現力のある人、じゃないのかなって。更に言うと、変換機を通して出てきたものが、他人にどういうふうに受け取られるかをよく理解して、コントロールできる人。だって、どれだけ独特な考え方を持ってても、表現方法がとんちんかんで、誰にも理解できないものしか作れないんじゃ、誰もそれを芸術とは認めないじゃないですか。あ、創作物が他人にどういう印象を与えるかを察するのに長けている人は、人によって嗜好に差があるっていうのを分かった上で、更に広く受け入れられるために創作物へエンタメ成分を入れるんですけど、そもエンタメっていうのは要は型の模倣で、型っていうのは大昔からの創作物の蓄積によって体系が作られた……、なんとかかんとか……」

都は饒舌に喋りまくった。安原はそれを孫の話を聞くおじいちゃんみたいな顔で微笑ましく聞いた。そうして時間を忘れて二人で話していると、かちりとミキサーのスイッチが自動的に入って、「遠き山に日は落ちて」が流れ出した。

安原はギターを背負って、都は放送室のドアを閉める。

「私も何か楽器やろうかな。音楽好きとして、聴いたり評したりするだけじゃなくて演者の気持ちも知りたくなりました」

「うんうん。ギターならちょっとは教えられるわよ」

「うふふ」

鍵箱の中に放送室の鍵を引っ掛けて、ノートに返却時間を書き記した。

「ヤス先輩、帰り途中まで同じ方向ですよね?」

一緒に帰りましょう、という意図は分かったが、安原は魚住を乗せて帰らなければならないので、

「ごめんなさい、約束があって……」

謝ると、

「あ、あ、いいんです、そうですよね、すみません」

都はしどろもどろになった。誘ったのに断られるのは恥ずかしいものだろう。安原は申し訳ない気持ちになって、理由を説明した。

「ほら、今、帰りに変質者が出るって言われてるでしょう? クラスに、よく痴漢に遭うって人がいて、そいつのこと自転車で送り迎えしているの」

「はあ、自転車……」

「うん、バレたらめんどくさいことになりそうだけど」

「内緒にします」

都はそう言って、笑ってくれた。

「ミーコは、帰り一人? もし一緒に帰る人が誰も捕まらなかったら、ぼくらと一緒に帰る?」

安原が尋ねると、都はぶんぶんと首を振って、

「大丈夫です。部活終わりの子誘って帰りますから、ご心配なく」

きっぱりと言うのだった。

安原は帰り道で、ミーコっていう面白い女の子がいる、という話を魚住にした。頭の回転が速くて、自分の考えを持っていて、音楽を愛している、真っ直ぐな女の子。魚住は安原の背中で相槌を打っていた。ただ、放送室というテリトリーを無断で侵しているような気になって、放送部部長の榊にはなんとなく言いづらいものがある、だから内緒にしておいて、と安原が言うと、魚住は頷いた。誰かと秘密を共有したり、誰かに秘密にしたりすることが増えていく。秘密というのは甘い味がする。

「秘密って甘い味がする」

安原が言うと、

「ひみつ、っていう音のせいじゃない? ほら、漢字もさ、蜜って書くでしょ」

魚住が安原の背中に、みつ、と書いたのが分かった。しかし、ひらがなだ。

「蜂蜜の蜜と秘密の密は字が違うわよ」

「そっかー」

魚住はあまり頭が良くない。

「魚住は高校どうすんの?」

「私は紗ヶ原女子の推薦もらったよ。ヤス君は?」

「ぼくは市川高専」

「高専って、工業高校?」

「じゃなくて、工業系の勉強するところだけど、五年あるのよ」

「ふうん。ヤス君は頭いいもんね。何にでも興味持って、きっとやっていけるよね」

「だといいんだけど」

「大丈夫、大丈夫、ヤス君は大丈夫」

実のところ、安原は不安だった。高専への進学を両親に反対されて、話がまとまらないまま推薦入試の出願ができず、機会を棒に振ったのだ。極端な性格である安原だから、滑り止めを受ける気はない。二月下旬にある一般試験の一発勝負である。

しばらくすると、やはり安原の危惧していたとおり、生活指導から呼び出しがかかって、自転車通学のことを注意された。教員の口から魚住の名前は出なかったので、安心して、安原は形だけ謝った。魚住に、自転車通学ができなくなったことを謝ると、魚住は、全然気にしなくていいよ、と笑ってくれた。それから魚住は安原を廊下の隅まで引っ張って行くと、

「水島先生に下校だけ送ってもらえることになった」

と耳打ちした。魚住が笑顔になったので、これはいいことなのだろう、と思い、安原は「良かったわね」と言ってやった。魚住は、朝は歩いて登校、帰りは水島の車で帰ることになった。

安原はくるくるとシャーペンを回しながら考える。窓の外で遠くに、ででっぽっぽーの謎の鳥が鳴いているのを聞く。その四拍子のリズムに乗っていると、意識が飛びそうになる。一時間目の数学の授業は憂鬱だ。魚住の思い人であるところの数学の水島は授業の進め方が下手だ。因数分解の解の公式が気に入らない。公式を丸暗記して解く数学に何の面白味があるのか分からない。クイズ番組じゃねえんだ、もっと学問の面白さを教えて欲しい。授業に飽きたので、シャーペンの分解でもしよう。

「問一を……はい、じゃあ目が合ったので安原」

見てねえし。

「分かりません」

食い気味に安原は即答する。面倒なのだ。しかし、朝からどうしていらいらするのかが分からない。

その日の放課後、下校時刻を回って真っ暗になった学校で、安原は一人ぶらぶらしていた。放送部は活動日だったので都とも会わなかったし、なんとなく誰とも帰る気になれなかった。学校の敷地を無意味にぐるぐる歩き回っていると、練習帰りの運動部に変な目で見られた。学校の四隅を触ったら帰る、というルールを決めて、安原はもくもくと歩いた。

三つ目の角に来たところで、安原は職員用駐車場の隅に魚住が立っているのを見た。魚住は人待ち顔だ。吹奏楽部を引退した後でも魚住は練習に顔を出していると聞く、こんな時間になるまで付き合っているのか、大変だな、と思う。じっとしていると、魚住に気付かれそうだと思ったので、安原はすぐにその場を離れた。それからきっちり四隅を触って、真っ直ぐ家に帰って、ベッドに飛び込んだ。オーディオのスイッチを入れてヘッドフォンのジャックを差し込んで再生ボタンを押すと、都に借りたCDの一曲目が流れ出した。古いCDは音圧が低いから、物足りなくてボリュームの+ボタンを高橋名人ばりに連打する。ベースの音が下腹に響く、下腹が痛い。

セックスのやり方が分からない。安原は自分には性欲がないと思っていた。だから性教育で習ったことと、家庭の医学で読んだ内容以外の、男女の肌の触れ合いについての知識がなかった。本もビデオも見たことがなかったし、同級生から見るように勧められても、気持ち悪さが先に立って断っていた。オナニーすらしたことがなかった。ただ、体から排出されるものはあって、たまにそれで下着を汚した。そんな安原だが、最近おかしなことになってきた。風邪をひいたときのように、四六時中いらいらが頭にまとわりついて離れない。もしかすると原因はこれなのではないか、と自分の性器を触ってみると、いらいらが深い快感に変わって、すぐに射精した。それ以降、安原は具体的なセックスや女の裸を想像しないまま、雰囲気で抜いた。いやらしくて、うしろめたくて、甘ったるい雰囲気を体にまとわせるだけで、十分射精に至ることができた。溜まってきたら抜くことで、いらいらは一時的に取り払われた。やはり自分は男なのだ、性に頭が支配されている、くだらないな、と安原は苦々しく思った。

安原の放課後の奇行は激しくなっていった。手紙の一件以来、足を踏み入れていなかった図書室へ行って、告白してきた女子がいることを確認すると、わざわざ出向いて行って、ものすごく態度の悪い感じで話しかけ、びびらせた挙句に貸出手続きをさせたり、職員用の下駄箱に入っている音楽の長谷の革靴を、隣にある来客用の下駄箱に移動させたり、水島が職員室にいるのを何度も確認して、帰ったのが分かると、駐車場に車があるかどうか確認しに行ったり、学校中をむやみにうろついたりと、子供っぽいことばかりした。

そんなある日の放課後、安原が誰もいない特別教室棟の階段をぐるぐる上がっていると、上の階から鍵を回す音が聞こえてきた。外はもう真っ暗で、下校時刻は過ぎている。安原はわくわくして、音をたてないようネズミのようにささっと階段を上がり、三階と屋上の間の踊り場に身を潜めた。フロアに一つしか教室がない棟なので、鍵の音が三階にある教員用の書庫だということは分かった。

誰かが階段を上がってくる。書庫には人がいるはずだが、その割には何の音もしないので、安原はどきどきしてきた。心霊的なものは信じないが、怖気立ってくる。しかし次の瞬間、安原の心臓は別の意味で暴れ始めた。階段を上がってきたのが、魚住だったからだ。魚住は一応周りを確認する素振りを見せて、書庫の扉を五回もノックして、一呼吸置いて扉を開けた。やばい、逢い引きだ、と安原は気付いた。その相手が教員で、おそらく水島だろうということも。安原の動悸は止まらなくなった。しばらくしたのち、机のがたがたする音と一緒に、

「あ、あ、あ」

という、何やらなまめかしい声が聞こえてきた。安原は気持ちが悪くて、吐き気を催した。それなのに、耳を塞げない、その場所から離れられない。音が止むと、水島が部屋から出てきた。鍵をかけずに帰るつもりらしい。それからしばらく時間を置いて、魚住が出てきた。魚住は挙動不審だ。暗闇の中で、思いつめたような表情をしていた。

安原のテンションはおかしくなっていた。魚住が下足場へ走っていく影を窓から確認して、安原は書庫へ入ってみた。ドアを閉めると真っ暗で何も見えないので、手探りで進んでいく。どこで行為に及んでいたのだろうか。走った後のように呼吸が荒くなるのは性的な興奮なのか、嫌悪感なのか、自分でも分からない。気持ちが悪いものに触れてしまうと、気がおかしくなるから、どこまでもそこへ浸りたくなってしまう。ぺたぺたと棚を伝っていくと、途切れた辺りに机があった。表面をすべすべと触ってみる。ここでやっていたのだろうか、もう人肌のぬくもりはない。安原はそこへ上って横になり、上靴を脱いで体を丸めてみた。机に鼻を擦りつけてにおいを嗅いだ。しかし、書庫のほこりっぽいにおいの中では、人間の残り香は感じられない。安原は長いことそこで丸まったまま、ズボンを下ろして、自分の性器を弄っていた。射精はしなかった。

>>〔四〕へ続く

Sep6, 2012

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