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〔四〕邪魔者ラプソディ

安原は考える。教員と生徒がセックスをするなんて、不潔だ。本気か浮気か知らないが、いい大人が十五の女の子から好きだと言われて、その気になるなんて馬鹿げている。慕ってくれる生徒のことを汚すなんて酷いこと、水島はどうしてできるのだろう。そんな愚かな男を好きになる魚住は、ばかだ。

「魚住さ、水島とはどうなの? 車で送ってもらってるんだから、何か進展ないの?」

安原は鎌をかけてみた。もしも何かあったら何でも話して、相談に乗るよ、とでも言うように、全てを受け入れるような優しさを装って魚住の顔を覗き込んだ。魚住はばかだから、優しくされると誰にでも心を許しちゃうのだ。水島に体を許したように、安原にだって、心を許しちゃうのだ。

「ううん、何も。普通に車で家まで送ってくれるだけ」

安原は落胆した。しかし、二人の関係は安原しか知らないことで、いわば安原の頭の中にしか存在しない。安原が、あれは嘘だった、と思えば、それ自体が存在しないことになるのではないかと考えた。誰とも共有しない記憶は、自分でいくらでも改変できる。認識しないことは存在しないも同じ。だから、あの日のことは嘘だった、今の魚住の答こそが本当だ、と思い込もうとした。

そんなことを考えているくせに、次の日の放課後、安原は職員用駐車場で魚住を待ち伏せた。いくら魚住の好きな人とはいえ、教員である水島との関係をこれ以上続けさせたくない。

安原は暗がりで、フェンスの網目を弦のように指で弾きながらじっと待った。しばらくすると駐車場に水島が現れて、運転席に乗り込む。それから少し時間を置いて、魚住が小走りでやって来た。

「魚住!」

安原が大声を出すと、魚住は驚いて跳ね上がった。

「ヤス君、どうしたの?」

この頃の安原は、魚住と水島の恋を応援している体で魚住に接していたから、ここで安原が魚住を止めると、どうして? と思われるし、邪魔しないで、と嫌がられるかもしれない。それでもそんなことに構っていられないくらい、安原の気は急いていた。もう今日の逢い引きは済んだ後で、セックスだって済ませた後で、それを分かっているのに、これ以上二人が一緒にいることを許せない。

安原はうまい返答が思いつかず、魚住の方へつかつかと歩いていった。すると、車から水島が出てきて、

「安原、まだ残ってたの? 安原も乗せて帰ろうか、もう真っ暗だし」

いつものゆっくりとした口調で声をかけてきた。安原はいらいらした。生徒とセックスをしたあとの汚れた口で話しかけてくるな、そう言ってやりたいが、ぐっと抑えた。安原は水島を無視して、

「魚住、帰るわよ」

魚住の腕をつかんだ。

「え、え?」

腕を引っ張ると、魚住はそこから動かないように足を踏ん張るので、安原は苦しい、と思った。どうして、あんな男の側に行こうとするのか、どうやったら引っぺがせるのか、思案して、

「話があるの。今日は水島の車じゃなくて、ぼくが送るから」

そう水島にも聞こえる声で言った。

「乗らないの?」

と、飄々とした様子で水島はこちらを見ていたので、安原はそれを睨みつけて、魚住の手を引いた。

何も言わずに、魚住の家へ向かう真っ直ぐな道を二人で歩いた。さっきつかんだ魚住の手首の感触が、まだ手に残っている。それをポケットの中で一人いじくりまわした。他人からむやみに触れられることを嫌う安原なのに、他人に対しては躊躇なく接触してしまう。それを思うと、自分で自分が気持ち悪くなった。

市役所があって、電力会社の本社があって、他にもなんだかよく分からないでかい会社があって、仕事を終えた大人たちが出てくる。大人は大人同士で恋愛していればいいのに、大人はぼくたちのことを性の対象にする。自分でお金を稼いで、自分で自分のことを全部決められる術を持った人たちが、未熟で自由じゃないぼくたちに飴をやって、弄ぼうとする。ぼくたちは大人から見たら、セックスという飴を貰って嬉しがる獣。大人の真似事を教えてもらって、もっと、とベロを出している。大人は危険だと思いながら、大人に向かって体が成長していくということは、なんと恐ろしいことだろう。

「教員とセックスするなんて不潔」

本来は口にするのもはばかられる単語なのだが、今は何でも喋ってしまいそうな勢いがあった。魚住はしばらく黙って歩いた後、一言だけ、

「誰にも言わないで」

と小さく言った。

「言うわけないでしょ、こんなこと」

女子に対して、故意ではないとはいえ、セックスを盗み聞きしてしまったことを言うのは、たぶんすごく失礼なことなんじゃないだろうか、そう思うのだが、安原の口は止まらない。

「学校でするなんて何考えてるの。頭おかしいんじゃないの」

「知ってたの? ヤス君の他にも……」

「ぼくしか知らないわよ、たぶん」

「そう……」

「特別教室棟の書庫で会ってたんでしょ。この間、たまたま同じ階にいたのよ」

「ごめん……」

何に対しての、ごめん、なのか、意味が分からない。

「誰にも知られないようにしたいなら、学校でなんて絶対駄目じゃない。ばれたらどうすんの? ばれたらアンタまで他人から変な目で見られるのよ? あいつは自分の立場がどうなっても構わないのかもしれないけど、魚住のこと考えるなら、学校でなんて」

安原は、学校でなければ何をやってもいい、と言いたいのではない。しかし、どう言えばいいのだろうか。分からないまま、とにかくまくしたてると、魚住は安原の言葉を遮った。

「もういいよ、分かった」

「分かってない! ばか!」

水島との関係はやめた方がいい、そう言いたいのだが、何を言っても魚住には届かないだろう。

「好きなんだもん。先生も私のこと好きって言ってくれて……」

「そんなの本気にするのが、ばかなのよ」

安原が吐き捨てると、魚住は安原の顔をじっと見た。睨んでいるのかもしれないが、魚住の表情は殊に怒りの感情を読み取りにくい。

「自分の好きな人を嫌いな人は受け入れられないっていうなら、ぼくのこと無視しても構わないわ」

次の日曜日に、安原は高専の入試を受けた。そして翌日、月曜の朝早くに学校の職員用駐車場で、次々と入ってくる教員に挨拶もせず、安原は水島を待った。水島の車が入ってくるのを確認すると、縁石に座っていた安原は立ち上がって、近付いていった。

「ちょっとアンタに話があるんだけど」

「何?」

安原の学ランの袖ボタンがボンネットに擦れる。

「ここで言ってもいいの?」

「え、何だろう?」

水島は白を切るつもりらしい。

「魚住」

と安原が名前を出すと、

「どういうこと? この間、安原が魚住のこと連れて帰ったけど、何かあったの?」

更に白々しいことを言う。ここで具体的な話をするのはまずいというのは安原の方がより思っていることで、安原がここで周囲の誰かに分かるように言わないだろうことを水島は知っているから、こんなに余裕ぶっていられるのだ。教員を告発することよりも、魚住を守りたいという思いの方が強いという安原の感情を、水島はきっと分かっている。

「生徒と……するのは、やめるべき」

安原は言葉を選んで何とか水島を責めようとする。

「何が言いたいのかな?」

「魚住に、これ以上は関わるな」

「何言ってるの。魚住のことは先生が家にちゃんと送り届けてるよ、それだけだ」

自分のことを一人称で先生と呼ぶのも安原は気に食わない。先生だとは少しも感じられない奴に限って自分のことを先生と呼ぶ。

一時的に人がはけて、周囲に誰もいなくなったのを確認すると、安原は言った。

「特別教室棟の書庫で魚住とヤってたの、知ってるんだよ」

「そんなことしてないよ、何の証拠があるの?」

「外から何やってるのか全部聴いたし、二人が書庫から出てくるのも見た。魚住にもこの間、確認したわ」

すると、水島は舌打ちをした。魚住に対する舌打ちだ。安原の声は怒りによって震えだした。声だけではなく、手足までぶるぶる震えた。

「教員が生徒とするなんて不潔だ、犯罪だ。魚住のこと、これ以上巻き込む気なら、ぼくは……」

「いい加減にしてくれ。先生は何もしていないし、魚住も関係ないよ。安原は夢でも見たんじゃないか? このところ授業も上の空なようだし、心配だよ」

「アンタが心配してるのは自分のことだけだろ」

安原がそう呻くと、水島はため息をついて言った。

「というかさ、安原ってソッチの方の……男が好きなんだとずっと思ってたけど、そうでもないんだな。それとも両方いけるクチ?」

それを聞いて、安原は頭に血が上った。跳び上がって、腹を思いきり蹴って、顔を殴りつけた。水島は口の中を切ったようで、にわかに口の内側が赤くなっているのが見えた。他人の口の中を見るのは、水島の言うように生々しい。しかも血が出ているのであればなおさら、口の中は内臓っぽいのだ。

しかし水島に両腕をつかまれると、それ以上は身動きが取れなくなった。体格も腕力も水島には到底敵わない。そこへやって来た他の教員に引き剥がされ、安原はそのまま生活指導の方へ引っ張って行かれた。

殴った理由について、安原は押し黙った。謝罪もしなかった。詰問は授業を挟んで夕方も続いた。「まあ、仲悪いとは聞いてたけど……」と望田先生はため息をついた。野球部での暴行事件を知っている教員には、またこいつか、という呆れ顔をされた。一度目ではないということを重く見てか、または相手が教員だからか、あるいは何一つ語らない安原の強情さが教員の反感を買ったからか、安原は一週間の出席停止になった。母親が呼び出されて頭を下げるのを見て、安原は苦しくなった。こんなことまで親に面倒を見てもらわなければならないのか、と無力感に襲われた。

しかしいいこともあった。両親が高専への入学について、賛成するようになったことだ。家では面倒見切れない、寮にぶち込んで、そこで更生するならその方がいいだろう、ということだった。父親はやはり、息子に対して無関心で、無関係な態度を貫くのだ。息子がいいことをしても悪いことをしても自分には関係ない、自分は教育していないから知らない、という様子である。安原の場合、親への反発、親の興味を引くために非行に走るという、非行少年にありがちなコースではないから、父親が自分に依然興味を示さなくても、心は波立たなかった。いつものことだと呆れるだけだった。

出席停止の間は外出禁止であるから、自分の部屋でじっとしている。気が滅入ってくると、音楽に手が伸びることが常の安原であったが、試しに音楽を聴かないようにしてみると、頭の中が言葉や考えで埋め尽くされた。気分が思考に押され、真っ黒に塗りつぶされていくようだ。やはり音楽は薬だ。もはや、薬がなければ心の均衡が取れない安原である。

本をたくさん読んだり、人より勉強ができる安原は、友達と喋るときに小難しいことを言うからか、冷静だ、と表現されることがあった。それを聞いて、いつも安原は嬉しくなった。しかし、実際は冷静なのではなくて、ただの冷たくて優しくない人である。自分で自分を冷静なキャラクターだ、と思い込みたいだけだった。嬉しがっていた自分を振り返って、恥ずかしいな、と安原は唇を噛んだ。一年生の頃、野球部で暴れたことや、三年の一学期、図書委員の子に怒鳴り散らしたことなど、怒りの感情がコントロールできないのに、何が冷静だろう。

夕方になると、家のインターホンが鳴った。「理一郎、お友達が」と母親が言うので、安原はうろたえた。魚住だったらどうしよう、何を言われるだろう、しかし、それは杞憂だった。榊が、見舞いに、と来てくれたのだ。榊は安原の部屋に入ると「広い」と言ってニコニコした。図らずも安原が家に呼んだ友だち第一号である。榊の言うようでは、安原は学校を病欠していることになっているらしい。出席停止であることを正直に言うと、榊は驚いていたが、安原が聞かれたくないことについては、すぐに察してくれた。最近榊と須藤の様子がギクシャクしていることについて何か聞いてみようかと一瞬安原は考えたが、榊がこちらに気を遣ってくれるなら自分もやめておこう、と思い、口を噤んだ。男と女の間には色々あるのだ、と演歌の歌詞みたいなことを考えて、ふと、ぼくと魚住は何なのだろう、と安原は思いついた。魚住のことを、もう純粋に友だちだとは思えない。それは男とセックスしている事実を突き付けられて、安原の中で魚住の女性性のイメージがむき出しになってしまった、ということによるのだろうか。

出席停止が明けて安原が学校へ行くと、魚住が欠席していた。嫌な予感がしたが、望田先生曰く病欠とのこと。安原が水島を殴ったことで、あの二人の関係に何かしらの動きがあっただろうことは予想できるが、以前よりくっ付いたのか、仲違いしたのか、そこまでは分からない。翌日、魚住が登校してきた。しかし、安原の方へ近寄ってくることはなかった。挨拶をしたが、返事は返ってこなかった。絶交を態度で示しているのだ、ということは安原にも分かったので、安原からそれ以上話しかけることはしなかった。絶交されても仕方のない行動を安原は取ったのだし、「無視しても構わない」と魚住に言ったのだから、こうなることも覚悟はしていたのだ。全部壊れる覚悟がなければ、人を殴ったりなんてできるものか。安原は呪文のようにそう考えて過ごした。

放課後、久し振りに安原は放送室を訪ねた。しばらく来られなかったことを都に謝ろう、そう思いながらドアをノックすると、出てきた都の容貌が変わっていて、安原は驚いた。

「ミーコ、メガネは?」

「コンタクトにしたんです」

都は黒目がちな目をくるっとさせる。安原が踏んづけて一度壊した黒縁のメガネはやめてしまったらしい。

「メガネやめちゃったの」

安原は残念、と言いたそうな雰囲気を出した。すると都が、

「度が変わってきちゃったんです。野暮ったいし、この際だからやめてみました」

と感想を求める雰囲気を出したので、安原は、

「メガネの方が」

と空気を読まない発言をした。

「そうですか……」

都はしょんぼりした。

気を遣って褒めないといけない人、そうでもない人、気を遣う程度、自分との親密度、ケースは無限に広がっていて、安原は目眩がする。個別に考えるのはめんどくさいから、全部嘘をつけば楽なのだが、それでは心が引き攣って苦しいものだ。それに安原は都の前で嘘を言いたくなかった。

「メガネ、かっこよかったわよ。野暮ったくなんてなかったのに」

安原が正直に言うと、

「男子にはばかにされてましたし、確かに野暮ったいんです。セルフレームで、ごついし」

都は否定する。

「ぼくはいいと思ってたわよ。昔のコステロみたいでさ、ちょっと不遜で、インテリでパンクな感じで」

と褒めると、都は笑って、

「ありがとうございます」

と言った。申し訳なかったな、と安原は「メガネの方が」発言を反省した。

それから安原は都へ、何も言わずに長いこと練習を休んでごめん、と謝った。すると都は恐縮しきって「いえいえ、そんな、来てくれただけでも嬉しいです」と健気な台詞でフォローした。安原はギターを持ってきていなかったが、今日は都と喋りたい気分だったので、今までのように放送ブースにパイプ椅子を広げて座った。

都は今一番よく聴いているという邦楽バンドの話をしてくれた。

「ボーカルの宇佐美が好きなんです」

と、都は珍しいことを言う。都が音楽を語るとき、今までは楽曲そのものを褒めるということしかしなかったのに、人に焦点を当てて喋っているので、安原はわくわくしながら耳を傾けた。

「すごく多作な人なんです。作詞は全部彼が一人でやっていて、ギターの女の子が作曲と編曲をやってるんですけど、二人とも職人なんですよ。すごいんですよ。雑誌のインタビューを読むと、職人同士、気迫のぶつかり合いを感じるんです。熱いんですよ」

鼻息荒く喋っている。芸術分野においては求道的な人が好きだ、という都の意見には安原も全面的に同意する。

「でも、二人が付き合ってるとか、結婚してるんじゃないかって噂があるんです」

と都は眉を寄せた。

「噂って、どこ情報?」

「友達筋」

都らしくない、とぼけたことを言うので、安原は笑った。

「あてになんないじゃない」

「でも……」

「まあ、人気商売の人って結婚してたとしても、事務所が隠したりするんじゃないかしらね」

安原が想像で喋ると、

「会ったこともない芸能人に恋してるわけじゃないし、『アタシ宇佐美と結婚する』とか言わないですけど、やっぱり結婚してるって思うとガッカリというか」

都は肩を落とす。

「それは恋なんじゃないの?」

安原は言った。恋だから、好きな人が自分の知らないところで既に誰かのものになってしまっている、というのが嫌なんじゃないの?

「違うんですよ。バンド内でいちゃついてるって思うと、じゃあ、芸術活動は恋愛の延長なのかと思っちゃうし、それに今まで詩の中で散々、愛とか恋とか書いてたじゃないですか。でも、あの身を削って書いて、インタビューでも深く詩の内容について語ってたのが、結婚してるとなると全部嘘みたいに思えちゃって。自己表現が生業の人は孤独であってほしいし、その苦悩を切り売りしてほしい。これは勝手なファンの願望なんですけど」

都はなかなか残酷なことを言う。

「結婚して今が幸せでも、引き出しから引っ張り出して書くことはできるんじゃない? プロなんだし。そもそも結婚して幸せかどうかなんて本人以外に分からないわ。結婚したら余計孤独を感じる人もいるかもしれない。特に華やかな業界の人は」

家族や友人がいれば孤独ではないなんて言いきれない。プライベートや仕事でストレスを感じても、身近な人達の前ではいつもの自分を演じなければならないとしたら、それこそ辛くて、真の孤独であると安原は思う。

「それに、他人に易々と孤独でいろなんて言っちゃだめよ……」

安原は呟いた。都は、

「ごめんなさい」

と謝った。すると、安原の目から急に涙が溢れてきた。下を向くとボタボタ落ちて、ズボンの膝が濡れる。安原は自分の涙にびっくりした。

「え、え、え、ヤス先輩どうしたの?」

それを見た都はもっと驚いて、タメ口になってしまっている。涙をだらだら流しながら、安原は、

「分からないの」

と言ったが、どうしても声が震えてしまう。

「私が孤独でいろって言ったからですね。すみません、本当ごめんなさい」

都が慌てるので、安原は「違うの」と否定した。しかし涙は全然止まらない。まつ毛は傘の骨の先のよう。

下を向いてまばたきをしないでいると、涙のレンズができて、景色が変になる。まばたきをすると、ボタっと大きな粒が落下するので面白い。泣いているのだから悲しいのかもしれないけれど、悲しみの正体が分からないから、そこに酔うことができない。ただ自分を観察していようと思う。

「うん、うん、大丈夫です。ヤス先輩、泣いても大丈夫」

都は安原の背中をさすってくれた。誰かから大丈夫と言われると、わけがわからずとも大丈夫と思えるから不思議だ。安原は子供みたいにしゃくり上げた。

都はそれ以上特に理由も聞かず、安原が泣き止むまで背中に手を置いていてくれた。安原より年下の都だが、意外な包容力があった。安原は都の前で泣くことを恥と感じないわけではなかったが、それは限りなく薄かった。

「いきなり泣いてごめんね」

涙がようやく引っ込んできた安原は、目をごしごし擦って顔を上げた。

「いいえ」

都はにっこりした。安原は、ふと気付いた。メガネのときは、どうしてもフレームに注意が行きがちなので気付かなかったが、都の目の中の虹彩は黒ではなく茶色だ。じっと見ていると、瞳孔のわずかな収縮がはっきりと分かって面白い。

「ミーコって目が茶色いのね」

安原は感心して都の目を覗いた。都はそれが恥ずかしかったのか、さっと視線を逸らして、

「そうなんです、色素が薄くて」

と言う。

「印象的な目でいいわね。さっきはメガネの方がいいって言っちゃったけど、メガネがないと色がきれいなのがよく分かる」

安原は褒めちぎった。すると都は、

「これ、あんまり良くないですよ。普通より眩しい気がするんです。他の子は眩しくないって言うのに、私だけ眩しいって感じることが多いんです。光に弱いんです」

と説明する。

「普通の人より景色が眩しく映るのね」

「いつも眩しいです、今も眩しいです」

都は笑ってそんなことを言うのだった。

それから二日後の朝、安原が自席についてスクールバッグを下ろしていると、女子に呼び止められた。そして、こんなことを言われた。

「ヤス、知ってる? 榊君がタバコばれてつかまったらしいよ」

安原はすぐに内容が飲み込めず、きょとんとした。女子は続ける。

「三組の柴田とかと一緒に、放課後に学校で吸ってたんだって」

具体的なことを言うので、本当なのだろう。驚きながらも、あの優等生の榊が? と安原は首をひねった。

榊と一緒に吸っていたという柴田は、隣のクラスの不良ぶっている男子のことである。不良という言葉を思い浮かべるとき、まず見るからに悪そうで、服装が乱れていて、素行も悪い生徒、というステレオタイプがイメージできるが、それは安原にも当てはまるので、自分も不良だった……と安原は頭の隅で嘆いた。

しかし柴田と自分の違いは何だろう。勉強ができるか否か、素行の悪さの程度、徒党を組んでいるかどうか? 何にせよ、安原は悪ぶっているああいった手合いとは仲良くできないし、悪くなるために悪いことをする、というヤンキー的メンタリティを内心でばかにしているのだった。榊がどうしてあんな奴らとタバコを吸ったのか知らないが、つまらないことをして推薦合格に影響が出たらどうするつもりだろう。しかしこれも自分に当てはまることなので、安原は頭を抱えた。

一時間目の数学が始まっても榊は帰って来なかった。カバンは掛かっているので、おそらく指導中ということなのだろう。数学なら、ぼくもボイコットしたいくらいだ、と安原は前に立って板書する水島を忌々しく睨みつけた。

授業の途中で教室に戻ってきた榊に安原が「ばか」と口の動きだけで言うと、榊は表情を歪ませて、「面目ない」のポーズを取った。

後日、榊に聞いたところによると、タバコの件で今回、高校の合格が取り消されるということはないそうだ。安原の暴行の件については分からないが、どうか無事に合格できればいい、と思う。

三月一日、安原は高専まで合格発表を確認しに出向いた。そこで、緊張しながら掲示板に目をすべらせた。安原は無事、その中に自分の番号を見つけることができた。安堵した。来年度からは高専生である。

やがて卒業の日がやってきた。吹奏楽部が『威風堂々』を演奏してくれる中、卒業生が体育館に入場する。この曲の懐の深さ、神々しさに安原はいつも涙が出そうになる。徐々に楽器が増えて、音がどこまでもふわあと伸びながら、分厚くなっていくところなんか、胸に迫るものがある。言葉ではなく、音に心が揺さぶられるとき、音楽に許されている、愛されている、という絶対的な確信が訪れる。

吹奏楽部顧問の長谷は、上半身だけを器用にぴょんぴょん動かして指揮棒を振っていた。

式は正装でなければなるまい、と安原はいつもの、学ランの下にパーカー、という格好をやめ、この日はきちんと学校指定の白シャツを着て来た。校則は平気な顔で破るくせに、社会のルールやマナーには従ってしまう小心者の安原だった。中学校を卒業して、これから年を取るにつれ、服装というものに対して、誰かが指定や注意をしてくれる機会は少なくなる。安原は、世間の目にびびりながらもドレスコードを守って生きていくことだろう。

式が終わり、ホームルームの後、生徒会執行部で簡単な追い出し会をしてもらえることになった。生徒会室では、後輩の女子が面白がって三年男子の第二ボタンを乱獲している。安原が恐る恐る生徒会室に入ると、後輩の女子が群がってきた。やはりボタンをくれとせがまれるので、安原は自分で乱暴にむしって、女子に渡した。学ランのボタン全てがなくなった安原はそれを羽織って、中庭での生徒会執行部の記念写真に収まった。

撮影が終わると、遠くの方から都が安原を見つけて駆け寄ってきた。都は安原の学ランの前が全部開いているのを見て、

「ボタン全部なくなっちゃったんですか」

と目をぱちぱちさせる。

「生徒会の後輩連中にむしり取られたのよ」

安原が苦笑すると、

「やっぱりモテモテですね」

と都は呻った。

「違うのよ、みんな面白がってやってんの。生徒会なんてイベントに騒ぎたい人間の集まりなんだから」

恋愛の思い出ではなく、親愛のしるしとしてならば、第二ボタンも喜んで渡す安原である。

「でも、今どき第二ボタンを貰うなんて時代錯誤甚だしいと思わない?」

人目につかないようにボタンを遣り取りしている二人組を遠くに見つけると、安原は都にそう聞いた。すると、都は黙ってしまった。もしかして、ミーコはぼくにボタンを貰うつもりだったのかな? と気付き、迷った挙句、ポケットを探った。

「ミーコ、これ、良かったら貰ってくれる? 手出して」

安原はべっ甲柄のピックを取り出して、都の方へ向いた。

「えっ、あ、はい!」

都は焦って、手のひらをスカートでごしごしやって、安原の方へ出した。安原は都の手にピックをぽとりと落とした。すると、突然都はカクンと俯いた。どうしたんだろうと思い、安原が顔を覗き込もうとすると、都はさっと一歩下がって、

「コンタクトがずれました」

と左手で目を押さえながら言う。

「大丈夫?」

「大丈夫です」

安原は都の気持ちに気付いていた。都の「大好き!」はいつも痛いくらい安原の胸に刺さっていた。しかし都とは一番深いところで分かり合える友だちでいたかった。相手の気持ちに応えてやれないことを、安原は初めて悲しいと感じた。

まだちょっと赤くなっている目のまま、都は顔を上げて言った。

「私は、ヤス先輩と話してて、いつもすごく楽しいなって思ってました。言葉のいっこいっこ、全部の意味が伝わってくる気がして、気持ちが通じ合う感じがしてたんです。こんなに気の合う人には、これからもう出会えないかもしれないです」

安原は、都も自分と同じことを感じていたのだと知って、胸がいっぱいになった。都の言葉は安原に何でも通じていた。何を思って都が言葉を発しているのか、安原は論理だけでも感覚だけでもなく、いつも分かっていた。

「ぼくもミーコと話してて、よくそう思ってたの。ミーコの喋ることは、意味のあることもないことも、全部音楽を聴くみたいに聞いていたのよ」

だから他人じゃない感じがした、という言葉だけ、安原は呑み込んだ。それは今の都にかける言葉ではないはずだ。都は安原の言葉を聞いて、眉根を寄せた。しかし、目と口は笑っている。安原には都が何故こんな表情をするのかが、分かってしまう。

そんな安原の耳に吹奏楽部のチューニング音が入ってきた。中庭で、三年生も加わった吹奏楽部の最後の演奏をするらしい。みんながぞろぞろと吹奏楽部の列の周りに移動し始めたので、安原と都もついて行った。

人が揃うと、音の出だしを待つような静寂に包まれた。そして一瞬、ぴたっと全員の息の止まるような瞬間があった。長谷が指揮棒をすっと上げる。音の始まりは、いつだって空気の流れが変わるものだ。魚住の吹くクラリネットのポルタメントが、灰色の空に素晴らしい曲線を描いた。去年の文化祭で演奏していた『ラプソディ・イン・ブルー』だ。なんともひょうきんなブラスアレンジである。安原は目で、一番前の席に座っている魚住の姿を捉えた。安原にはその姿が眩し過ぎて、目を開けていられないくらいだった。

安原の頭の中には、それからしばらく『ラプソディ・イン・ブルー』のキャッチーな主題がずっと流れていた。悲壮感のない曲で良かった。安原は泣き笑いだ。

久し振りに父親も揃った三人の食卓で、安原は夕飯を食べた。黙々と飯を噛んでいると、何故か昼間我慢していた涙が目からこぼれてきた。泣きながら食べるごはんはやたらと美味しい、と安原は発見した。口の中のものを噛むときの抵抗が心地良いので、いつもよりもゆっくりと咀嚼する。飲み込むときには、ちょっとしたサディズムが呼び起こされる。だから永遠に食事を続けていたい気持ちになるのだが、皿の上の料理は減っていくので悲しい。何故このように感じるのか、原理は分からないが、面白い現象だった。

心がどんなに苦しくなったって、ごはんを美味しいと感じることのできる体があるだけで、喜びだ。それだけではない。音楽を聴いたり、本を読んで感じることのできる心だってある。傷ついても逃げ込める場所はいくらでもあるのだ。

安原が夢中で食べながらも嗚咽を漏らしているのに気付いて、母親は慌てだした。

「理一郎、どうしたの」

母親は、ばたばたとタオルを持ってきた。一方、父親はこんなことを言う。

「理一郎、黙って食べなさい」

安原はただ涙をこぼしているだけで、黙っているのに。きっと父親は動揺しているのだろう。しかし、息子に何と声をかけたらいいのか、家族が弱っているときの会話の文法を知らないから、とんちんかんなことを言ってしまうのだろう。安原は父親の心の動くのが分かる。そして、そんな父親のことが、ちょっとかわいらしいとも思えた。

ゴッホの気持ちが少しだけ分かる気がする。さすがに耳は切り落とさないわけだが、自分の体の一部を無性に削ぎ落としたい気持ちになるときがある。

安原は洗面所に新聞紙を広げて、そこにあぐらをかいた。まずハサミで髪の毛を適当にざくざく切って短くした後、石鹸で泡立てて、T字カミソリでつるつるに剃り上げた。自分の体の一部がなくなっていくのは、異様な楽しさがある。この残骸はもうぼくではない、ただのごみだ。

鏡を見ると、中一の春以来の坊主頭がそこにあった。なかなか形の良い頭に我ながら惚れ惚れして、心ゆくまで撫でた。

昔、生徒会の女子が安原に無理やり貸してきた恋愛漫画に、こんな描かれ方をされている人物がいた。主人公カップルの隣で、健気に報われない恋をしている人はいい奴だ、報われなかった代わりに、彼には何らかの幸せなストーリーが用意されている。

そんな調子のいい話はファンタジーである。魚住と水島が主役の恋愛シーンの中では、安原はくっ付こうとする二人に意地悪を仕掛けてくる、ただの恋の邪魔者であった。そんな奴は人を殴る前に、とっとと馬に蹴られて死んでしまえばよかったのだ。

しかし、安原の世界は安原を観測者としてこれからも回り続ける。この世界の外では、また他の人がそれぞれ自分の世界の中で、手前勝手な恋愛を繰り広げるのだろう。そこでは自分の恋にとっての邪魔者が悪い奴。邪魔者は、報われるとは限らない。だから、報われない方がいい奴だとか持ち上げるな。感情移入もするな。

新聞紙の外に散らばった髪の毛のごみをガムテープでぺたぺた集めながら、安原は読者に毒づいた。

>>〔五〕へ続く

Oct4, 2012

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