<

作品一覧へ前頁<<>>次頁

十五歳

-前編-

四階から屋上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がる。掃除が不十分だからか、踏み面は埃っぽい。屋上へ出る扉は昼休憩が始まったばかりだというのに既に誰かが開け放していて、最後の踊り場をくるりと回るとドアの向こうにひつじ雲が見えた。秋は空が高い。

後ろからついてくる足音がしなくなったので手摺から身を乗り出して下を見ると、榊はオレのだいぶ後ろでまだだらだらと階段を上っている。視線に気付いたのか顔を上げて、

「須藤、席取っといてー」

と叫ぶので、

「もっと速く歩けー」

オレは急き立てた。

「脚がパンパン、体が重い」

と榊は弱音を吐く。四時間目の体育が持久走だったみたいで、へとへとらしい。腰を撫でながら重そうに膝を上げている。

「しょうがないやつ」

先に屋上へ出ると、十数人がフェンスの縁でそれぞれ弁当を広げていた。座れる場所は幸いまだなくなっていない。オレはいかにも騒がしそうな五、六人のグループから離れた所に陣取って弁当箱を二つ親亀と子亀みたいにして置いた。

フェンスの支柱が差さっている縁の一段高くなっているところへ立つと、スカートがふわあと風を含んでめくれる。コンクリートの地面から1メートル50数センチ上空にあるオレの短い髪は後ろへ流れる。

目の前のフェンスはオレの頭の位置よりずっと高く伸びていて、そのひし形の網目を通り抜けてくる風が今日はちょっと冷たい。

体に風がぶつかるのってやっかいだ。グラウンドのトラックを走ると、風がおきる。オレが加速すると、風はどんどん強くぶつかってきて、オレの肌の表面を重く滑っていく。そのうち空気が貼り付いてくる。皮膚呼吸ができなくなるくらいにだ。いっそ体が網目みたいに透けてしまえばいい。誰よりも早く走りたい。

「遅くなりました」

声に振り向くと、榊は隣に立っていた。持っていた水筒を弁当の隣に置いて、段差に腰を下ろした榊は、大きいほうの弁当箱に手を遣る。オレも段差からぴょんと飛び降りると、スカートを尻の下に収めて隣に座った。

「今日はきのこの炊き込みご飯」

そう教えると、嬉しそうな顔をして「いただきます」と包みを開いている。

放送部の部長である榊の声は結構渋い。声変わりの前はキンキン響くような高音だったけれど、小六の夏休みが終わった頃に思い切り低い声に変わった。しゃがれているってほどでもなく、ちょっとだけ語尾がシャウトする。校内放送で聞こえる声はすぐに榊だって分かる。といっても放送部に男子は榊だけらしいのだけれど。

「うまい。購買のパンより須藤の手作り弁当だな」

「へへ、嬉しいな」

榊の家はおばさんがお店の準備で朝忙しいので、昼食は大体パンなのだ。パンに飽きる頃になると、オレが弁当を作ってきて一緒に食べる。普段は教室で適当に席をくっ付けて何人かで食べているのだけれど、オレと榊が付き合っているのを知っている奴らはこんなとき、冷やかしつつも屋上へ追い出してくれる。ありがたいことだと思う。

「パン代浮いた分で今度何か食いに行こう、おごるよ」

がつがつと食べながらも気を遣っているのか、榊はそんなふうに言う。オレが遠慮なく

「パフェがいい、パフェ!」

とねだると、

「ホント甘いもん好きだな」

と榊は笑った。

「こないだ教えてもらったんだ。そこ600円ですっごいデカイの!」

「分かった分かった、じゃあ次の日曜でいい? 来週は部活ないだろ」

「うん、やった!」

オレたちはよくデートをした。休みの日には電車でちょっと遠出することもある。カップルでデートに行くと別れるという曰くつきの場所にわざと行ってみたりもした。それでも喧嘩することなく一年続いている。

オレが陸上の大会に出ると言えば、わざわざ見に来てくれる。それに対して素直に感謝を述べると、「家にばっかりいても不健康だし」と榊は言う。付き合うまでは結構出不精だったので驚く。彼女に対して彼氏なりに気を遣ってくれているのかな。

でも本当のことを言うと、榊にはあまり見に来てほしくない。榊がいると走ることに集中できない、というわけじゃなくて、走ることと榊と仲良くすることは別に考えたいのだ。競技は競技、恋愛は恋愛と、頭の中だけでちゃんと区別できる人はいるんだろうけど、オレはそんなに器用じゃない。オレが走っている世界の中に榊はいない。そう思わないと、ごちゃごちゃになってしまうのだ。

例えば、うまく走れなくて他のことが手につかないとか、逆に恋人と会えなくて寂しいから気が散って走れなくなるとか、そういうのはかっこ悪いって思う。

ひとつのことが、他のことに影響せずにそれぞれ独立している。それが理想だ。ひとつ心配事があると、ドミノみたいにバタバタ倒れていくのはくだらない。

グラウンドを見下ろすと、もう昼食を食べ終えたのかボールを持って出てきている男子生徒が何人か見えた。バレーボール用のネットを張っている場所は早い者勝ちだ。一目散にそこへ駆けだしている。

「榊さ、運動全般苦手って言うわりにはバレーボールは結構得意っぽいよな」

オレは水筒から麦茶を注いで差し出す。

「運動は苦手だよ、相変わらず。バレーはまあ、でかいからだろ」

榊の175センチ以上ある身長はまだまだ伸びている途中で、その上最近では筋肉が付いて体つきもがっちりしてきた。大して鍛えているふうでもないのに、男の体の作りというのは面白い。昔はオレより小っちゃくて痩せっぽちだったくせに、ちょっとくやしい。その長い腕でもって得意げにオレをがばっと抱きしめたりするんだ。くやしい、ばーか。

「いいなあ……。オレなんか、背止まりそうなんだけど」

「女の子はそれくらいでちょうどいいよ」

「やだよー。大は小を兼ねるの!」

「兼ねないよ」

榊はそう言って、小さい子にするみたいにオレの頭をぽんぽんと撫でた。

榊は女がみんな頭を撫でられることを嬉しがるとでも思っているのだろうか? 犬猫じゃないんだから、これみよがしにやるのはやめてほしい。友だちだった頃はそんなことなかったのに、付き合ってからの榊はオレのことをちょっと上から見下ろしているように感じることがある。必要以上に優しくするな、可愛がるな、女の子扱いもするな。大切に扱ってもらえるということは嬉しいはずなんだけれど、一年経ってもまだ榊の前で女の子というやつになりきれない。そのくせ榊の部屋で服を脱いでじゃれ合っている時、オレは恥ずかしげもなく子犬みたいになっているのだ。セックスだけは別腹なのか? と思うと自分に呆れた。このスキモノめ。

弁当の包みを元のように縛って立ち上がると榊が、

「尻のとこ白くなってる」

と言うので、

「え、本当? 払って、払って」

プリーツを掴んでひらひらさせると、

「やだよ、自分でやんな」

と冷たい。

「公衆の面前では俺は紳士なので」

だそうだ。スカートの尻をぱんぱんとはたきながらオレは「ああ、そうか」と気付く。オレの体には柔らかく張り出した尻や胸がくっ付いているのだ。

昼休憩終了のチャイムが鳴った。急いで教室へ戻ると、五時間目がロングホームルームだからか教室内は休憩中と変わらずまだ騒がしい。ほっと息を吐く。

教室の壁に掛けてあるカレンダーにふと目を遣ると、まだ九月のままになっていた。九月は金本。『1996年カープカレンダー』は担任である望田先生のお気に入りで、破ると多分怒られる。オレは丁寧にそれを十月にめくった。

しばらくすると先生が教室へ入ってきて、ロングホームルームが始まった。

体育祭のことについて話し合うよ、と望田先生はニカっと八重歯を出して、オレの方に視線を向けた。頭のてっぺんで丸めているおだんごは今日もちょっと右によじれている。肩がこらないのだろうか。榊に言わせると「もっちーはゴウホウライラクな人だから」だそうだが。

「体育祭の出場競技と召集の係決めね。じゃ、体育祭実行委員よろしく。えっと……、安原は休みだから須藤一人で悪いけど、頼んだよ」

先生はニコニコしながらそう言った。オレはこの間の委員会で貰ったプリントを持って、教卓の前まで歩いていった。こんなふうに人前で喋るのには慣れていない。妙な汗をかきながら、オレは必死にプリントの上の字を目で追う。

「対抗リレーの選抜は一学期の体力測定の結果から速い順で、男子は安原君と森君、女子は渡辺さんと自分です。……で、えーと、団体競技は騎馬戦、玉入れ、棒上旗奪いの三つに分かれます。希望者優先で分けるので、各自黒板に名前を書きに来てください」

みんなが席から立ち上がった。

玉入れが圧倒的な人気だ。適当に三分割した枠から名前がはみ出している。毎年こんな感じだから驚くこともないけど。第一、騎馬戦と棒上旗奪いは入り乱れてのケンカみたいなもんで危なっかしいからあまりやりたがる人がいない。仕方がないのでオレは騎馬戦の枠の中へ自分の名前を書いた。

「旗奪いは嫌だな……、俺絶対守備やらされるもん」

榊はふらふらとやってきて玉入れの欄に名前を書くと、オレにそう言って席へ戻っていった。

「えと、じゃあ騎馬戦と棒上旗奪いが第一希望の人は決定で、玉入れは後ろに集まってじゃんけんで決めてください」

しばらくすると榊は仏頂面で黒板の前までやってきて、棒上旗奪いの枠の中へ名前を殴り書いていた。去年に続いて今年も踏みつぶされるだろう可哀想な榊だ。今年は去年みたいに捻挫しなきゃいいけど。

次の日、風邪で二日ほど休んでいたヤスが登校してきて一番、

「えー、嫌よおリレーなんてー」

と窓際の席でカーテンにぐるぐると巻きつきながら叫んだ。榊が隣で、

「ヤスよ、リレーの選手なんて見せ場だろうに」

と言うと、

「別に体育祭で個人的に格好つけたいなんてこれっぽっちも思ってないからいいの、ぼくは」

ヤスはぷいっとそっぽを向いた。オレが、

「女子にキャーキャー言われるよ、たぶん」

となだめても、

「嫌よ、そういうのいらない」

と不機嫌なままだ。

ヤスはフルネームを安原理一郎という。オレとは三年から一緒のクラスになった。

「女子にモテたくてするスポーツなんて不純よ。須藤だってそう思うでしょ?」

そうヤスはオレに同意を求めてくるので、

「うーん、まあオレは走りたくて走ってるだけだけど、別にいいんじゃん? そういうのがいても」

と答える。

「この余裕は彼氏持ちだからかしらね」

ヤスはそう言ってちらりと榊に視線を向けた。

「知るかよ」

榊がそう言って視線を泳がせるのが可笑しい。

「そもそも女子にモテたくて陸上はじめる奴がいないんだよ。でもサッカーとかバスケやってたら、オレもチャラチャラしてる奴が嫌だなと思うのかもしれない」

オレが言うと、

「地味よね、陸上部」

とヤスは頷いた。

「まあ地味だよね、自分でもそう思う。ところでさ、ヤスはそれだけはしっこいんだから何か体育会系の部に入ればよかったのにって思うよ」

三年の二学期にこんなことを言うのは野暮なんだろう。ヤスは細くて背も低いわりに体育の時間はパワフルなのだ。何をやらせてもそれなりにキマっている。二年生の頃から生徒会に所属していて部活はやっていないが、オレがもう少し早く知り合っていたら強引に陸上部へ勧誘したかもしれない。しかしヤスは、

「一年の頃は野球部だったのよ。一学期の本当に最初の方だけだったけど」

と答えたので驚いた。榊も初めて聞いたみたいな顔をしている。

「でも、いいの。今は生徒会の賑やかし担当だから」

そう付け加えて、ヤスは笑った。

途中で部活をやめるということは、怪我で続けられなくなったとか、部員と反りが合わなかったのかもしれない。練習がきつくて、という理由はヤスに限ってはないように思う。だから、「どうしてやめたの?」という質問は口の中で噛み砕いた。

「そういえば、今年の部活対抗障害走はアメ食いがないのよ。あれがないとイマイチ締まんないのよね」

ヤスは不満げに言いながらカーテンにくるまる。ミノムシみたいだ。

二年生の頃はオレや榊や優子とは別のクラスだったのだけれど、ヤスは体育祭でもとにかくよく目立っていたのを覚えている。

去年の部活対抗障害走で最終コーナーはアメ食いだった。みんな息を吹きかけたり、アゴで粉を除けながらアメを探すので、せいぜい鼻から下を白くするくらいなのだけれど、ヤスは違った。一番に走り込んで来ると豪快に顔全体を粉の中に突っ込む。走る前にわざわざ顔を水で濡らしていたらしく、アメをくわえたヤスは石膏像みたいになっていた。そして最後の直線で無意味にスパートをかけて、グリコのポーズでゴールして、爆笑をさらっていた。

勉強ができて気難し屋な半面、人前に立つと、途端にひょうきんで目立ちたがり屋に変貌する。ヤスは不思議な奴だ。

体育祭が近づくといつも榊は部活で忙しくなる。榊が所属している放送部はイベント時は裏方仕事が舞い込むのだ。体育祭はアナウンスと音響とカメラを全て放送部でやるのだそうだ。

前日まで機材のセッティングをしたり、アナウンス原稿を書いたり、後輩に教えることも多くて息吐く暇もないと榊は苦笑する。

「当日も俺は休む暇ないもん。自分の出る競技以外はずっと本部席で放送かカメラ回してなきゃいけないからな」

「放送部って、そんなに部員少なかったの?」

「三年は俺以外ユーレイだな。一、二年は結構いるんだけど、今まで俺や顧問が教えるのサボってたから今になって苦労してる」

「笑ってる場合じゃないじゃん。卒業近いんだから」

「だよなあ。うちの部、女子しかいないんだけどさ、もうワガママで困るよ」

ケラケラと榊は笑った。年下の女子にちょっとバカにされつつも、何だかんだでいい先輩やってるんだろう。多分いじられてるんだろうな。

「あ、ちょっと今目閉じないで」

榊がオレの睫毛をビューラーで挟みながら言う。

「んー、目が乾く」

何とか瞬きをしようと、下瞼をぐぐっと上げると白目を剥きそう。

榊の部屋の畳の上に化粧道具をずらっと広げ、二人向かい合わせにちょこんと正座している。ぎゅっぎゅっとビューラーで挟み込んだ睫毛は無理やり上向かせられている。オレは榊に任せているだけで、自分の顔がどうなっているのか分からない。

最近になって、榊がオレに「練習させろ」とうるさい。オレの顔で化粧の練習がしたいのだそうだ。榊の家に行くと化粧道具をこうして目の前に並べられて、榊はオレの顔を好き勝手にいじる。オレはあまり興味がないので、好きなようにさせている。まあ、丁寧に触ってもらえるのは嫌いじゃないし、出来上がりを見るのは楽しい。

白いクリームみたいなやつをペタペタと肌に伸ばされながらオレは尋ねてみた。

「おばさんの仕事継ぐの?」

「薬局は継がない」

「どうして?」

「兄貴が薬剤師になりそうだから」

榊には7つ上で東京の大学に通うお兄さんがいる。オレはその人を小学生の頃にちょっとだけ見た覚えがある。メガネでひょろっと背が高くて、賢そうな顔をした人だった。体格以外、榊とはあんまり似ていない。

「お兄さんが継ぐの?」

「最終的にはそうなるんじゃないかと思う。あれは向こうで就職するかもしれないし、親はまだまだ仕事続けるだろうし、分からんけど」

「お兄さんとそういう話、しないんだ」

「しないなー。7コも離れてるといつまでもガキ扱いされる」

「ふーん」

「男兄弟なんてそんなもんだ」

「そっか、一人っ子のオレとあんま変わんないのかもな」

兄弟がいたら賑やかで楽しいだろうなと少し羨ましく思っていたけれど、兄弟には兄弟なりの距離感があるらしい。父さんと二人っきりで家族をやっているオレには、家族間でわざとビミョーに距離を取りたがるっていうのがいまいち分からないけれど。

オレの家族は父さんだけだ。そういう家庭はあまり普通じゃないと思われるらしい。

オレが父さんの仕事で手伝いをしていると、それをやたら褒めちぎる大人がいるがあれは一体何なのだろう。「須藤さんとこのおうちは大変ね」という言葉をかけてくる大人は何なのだろう。喧嘩を売っているのか。

オレの母親が家を出たのはオレが小学校へ上がる前のことだ。どうして出て行ったのかは知らない。出て行ったきりオレは会っていないし、母親の話も父さんとは一切しない。会いたい気持ちも特にない。

それでもぼんやりと残った母親の記憶に、嫌なものなんて一つもなかった。顔は思い出せなくて、もやがかかったようになっている。柔らかく抱きしめてくれた感触や、繋いだ手の温かかみを何となく覚えているだけだ。優しい人だったのだと思う。だから母親に何かすごくダメな育てられ方をしたとは思えない。

母親がオレや父さんと家族でいることを続けられなかったという事実で、オレを産んでから家を出て行くまでの間の数年、オレを愛してくれただろうことを否定したくなかった。それとこれとは全く別の話だ。一時的にでも愛してくれたなら、オレはそれで良かった。

オレは捻くれ者だと自覚しているけれど、片親だからそんなふうに育ったわけじゃない。そんなことを言うのは父さんに悪い。オレがダメならそれはオレのせいだ。オレはばかで子供なりに今までちゃんと取捨選択をして生きてきたつもりだ。自分の選んだことくらい責任を取りたい。片親だからといって色眼鏡で見てくるような奴なんてオレは見ない。

家族が少ないせいで不安を感じることはある。もしも父さんがいなくなったら、「家族」って単位はなくなってしまう。だからオレは突然ひとりぼっちになっても心を乱さない強さを身につけたい。

「どうした? 眉間にシワ寄せて」

榊の親指がぐりぐりと眉間を押した。

考え事をしていたせいか、いつの間にか難しい顔になっていたみたいだ。オレはぎゅっと眉を寄せた後、ぴっと上げてみた。榊は笑ってくれる。オレもつられて笑った。オレは榊が好きだ。

榊と付き合っているのが、不安の穴を埋めるためだったらどうしよう、と考えて眠れなくなることはある。榊を好きになる前には思いもつかなかったことだ。こんな想われ方、榊は嫌がるだろうな。

大体、好きって気持ちは一体どこからやって来るんだろう。一年前、急に降って湧いてすぐにオレの感情を占領したこの好きって気持ちの正体を、誰か教えてほしい。あの時、優しくしてくれる人に寄っかかりたい気分だったんだろうか。それとも、オレ達はセックスから始まってしまったから、もしや性欲を恋愛と勘違いしてしまったんだろうか。ああ、オレは頭が悪いくせに無駄に理屈っぽいのが困る。こういうときは感覚に委ねよう。走るとき、肌の感覚を研ぎ澄ませて頭の中から言葉を抜いていくみたいに、今は榊に触られていることに集中するんだ。榊の指先はしっとりしていて、心地いい。

「こんなもんかな」

鏡を見せてもらうと、それはもうきれいに毛穴という毛穴が埋められていた。

「ゆで卵みたいになったー」

「元々の肌理が細かいから扱いやすいんだ。ニキビもないし」

榊が満足そうにしているのが嬉しい。オレはさっき中断してしまった話の続きをしようと、道具を片付けている榊へ向け尋ねた。

「榊は女の人に化粧したり髪いじったりする仕事がしたいの?」

「女だけじゃないけどな。男も化粧するだろ」

「うへえ」

「男だって、テレビに出る人はみんな何かしら化粧してるって」

「そうなんだ」

「そうなんだよ」

「東京?」

「ん?」

「東京で仕事したいの?」

「あー……どうかな、まだ分からないよ。とりあえず高校出ないと話になんないし」

東京、と言っても遠い外国の名前を口にするのと同じくらい、オレには現実味がなかった。

部屋の隅っこで三つ折りに畳まれた布団へもたれてウトウトする。オレと榊は足を投げ出して、傍に置いてある目覚まし時計の秒針の音を黙って聞いている。窓の外で自転車のベルが鳴った。夕方の商店街は少し賑やかになる。

すぐ隣にある榊の手に触った。長い指をきゅっと握ると、

「何、寒い?」

榊はオレの手を握り返してくる。タオルケットを広げてくれたので二人でそれにくるまってキスをすると、ちょっといやらしい気持ちになった。榊もそう思っているようで、しばらく続けていると舌を入れてくるので吸ってやった。

そのうち、シャツの裾から手が潜り込んでくる。腹をさらさらと撫でつつ、指が胸元へ徐々に上がってきた。焦らしているつもりみたいだけど、オレはくすぐったい。

「あれ?」

「あ!」

しまった、と思った時にはもう遅い。オレはこの間初めて買ったブラジャーを着けていることをすっかり忘れていた。慌ててシャツの上から胸を押さえたけれど、榊に遠慮なくシャツをめくり上げられる。胸をじっと見つめられると恥ずかしくてたまらなかった。

「着けることにしたんだ?」

「うん……。最近走るとちょっと痛くて」

「これって何カップなの?」

「Bだって」

「へーえ」

榊はニヤニヤするのを隠さない。エロオヤジか。

「下着売り場って恥ずかしくってさ、さっさと買って帰ろうと思って『一番ちっちゃいサイズのやつでいいです』って言ったんだけど、とりあえず測りましょうってなって、だから……」

もごもごと何をオレは言い訳してるんだろう。

「何で隠すの?」

「恥ずかしいから……」

「おっぱいはいつも見せてるじゃん」

「いつも見せてない! オレは露出狂か」

裸よりも恥ずかしいって何なんだ。初めて制服のスカートを穿いたときみたいだ。

できるだけレースの付いてないやつを選んだのに、胸の膨らみを隠してるってこと自体がもうむずがゆい。オレは林檎を齧ったイヴに馬鹿と言いたい。

「これ、後ろのとこ外したらいいの?」

「うん」

「外す練習していい?」

「うん……、練習って何だよ」

「これから何度も俺が外したり着けたりするから」

「ばか」

「後ろ向いてみ」

背中のホックを外して、着けて、「なるほどー」って言って、引っ張ってパチンとやられる。

「痛い」

「ごめん、ちょっと遊んでみた」

それからまた外して、うなじを舐めて、肩ひもを下ろす。無抵抗でじっとしている間に、ズボンもパンツもさっさと脱がされてしまった。腕に中途半端にブラジャーが引っ掛かったままのオレの肩甲骨のラインを榊は何度も舐めている。舌がぬるぬると滑っていくたびに鳥肌が立った。

オレの首筋を榊はかぷかぷと食む。オレ達はタオルケットの下で重なったスプーンみたいになって、じっとしている。

「裸でくっ付いてるだけでいいの?」

尋ねると、

「ん……こうしてるだけでも十分気持ちいいけど……」

そう言って背中をぎゅっと抱き締めた後、オレの股間に榊は手を遣る。ぬるぬるしていた。もっとぬるぬるにして欲しくてこっそり脚を開いてみる。榊はそこを丁寧に馴染ませてから、中指の先をちょっとだけ穴に入れて塞いだ。

「ここに入れたらお互いもっと気持ち良くなるの知ってるから、入れたい」

榊がそう言うと、お腹がキュッと締め付けられるようになる。これは榊のことを好きになってから見つけた感覚だ。よく胸キュンとかいうけど、これって胸じゃないよな、位置でいうと腹だよな、とかどうでもいいことを考える。まあいいや、裸でくっ付いているときは余計なことは考えない方がうまくいくので、忘れよう。感覚に委ねるのだ。

「あっ、んっ……ふぅ……んっ――

榊のちんちんがオレの尻の割れ目に後ろからぴったり当てられてる。わざとか。

指を深く入れてかきまわされると、股の間が全体的にねちょねちょになった。溢れて太ももに垂れてきている。

「指、二本目」

くぷっと粘つく音がして、薬指が入ってきた。

「ん……」

「二本入れて、ちょっと慣らしたら俺の入れるから」

「うん……」

中も好きだけど、外側のひょこっと出てる突起を弄られるのも好き。

この間「『クリトリス弄って』っておねだりしてみて」と榊に言われた。オレはそのときクリトリスが何なのかよく分からなかったので素直に言うと、指で捏ねまわされてあっという間にいかされた。色々知ってるくせに教えてくれない榊はずるい。そんなふうに考えていると、

「ここ弄ってあげようか」

「ふぁっ、やっ――

榊は指を入れたまま、手のひらを柔らかい部分にぴったりと当てて覆う。えっと、ここは恥丘っていうんだ。榊があんまりいじわるするから『家庭の医学』読んでちょっとは覚えたんだ。

手のひらで割れ目を押し開いて、その間にあるクリトリスをそのまま擦り上げられる。ここを弄ってもらえるの、待ってたんだ。繰り返すたび、陰毛と愛液が粘ついて泡立ってぐちゅぐちゅとすごい音がした。

「んっ、んっ、んぁっ……」

手が当たってるところ全体がしびれてきた。これが更に熱くなってくると、オレはもういくしかなくなるんだけど、まだ何とか持ち堪えてる。

オレは声が出てしまうのを抑えようと手で口を覆った。階下のお店にいるおばさんに聞こえないよう必死だ。

「ふぅん……、むぐ……、んぐぅ……っ――

「抑えるのはナシ」

そう耳元で囁いて榊はオレの手を掴むと、口元から引き剥がした。もう一方の手も取られて、後ろに組まされる。

「ダメだよ、声、出ひゃっ……」

後ろを振り返って必死で訴えても榊はニコニコするだけで、オレの腕を押さえた左手も、くちゅくちゅと弄りまわす右手も全然緩めてくれない。

「ばかぁ……」

歯を食いしばって、声が出ないよう唇もぎゅっと結ぶ。そうすると鼻から息が漏れて、キュウン、キュウンって、まるで犬が甘えるときに鼻を鳴らすような声が出てしまって余計に恥ずかしかった。もっとって、ねだってるみたいで。

「もう入れよっか」

ちんちんを尻に擦り付けて榊は言った。榊の方も、先がぬるぬるだ。それをオレになすり付ける。

「うん」

「いい?」

「うん、榊、あの……」

言いにくくてつい口ごもってしまう。この間、オレは榊に初潮があったことを報告したばかりなのだった。そのため、セックスをするなら避妊してもらわなきゃいけない。

「えと……、着けてね?」

何とかそう言うと、榊はニッと笑ってから唇を強く押しつけてきた。

「んー」

キスが長い。それからぱっと離れると榊は立ち上がって、棚をがさがさと漁って戻ってきた。

榊がコンドームをくるくると装着していく様子をオレは観察している。突っつくと、表面は油みたいなものでぬるぬるだ。

「あのさ、着けると榊はもしかしたら気持ち良くないかもって……思うんだけど、もし気持ち良くなかったらごめんね」

「なんで須藤が謝るの?」

「いや、オレが生理になっちゃったから……」

「そもそも着けてやるのが普通なんだ。須藤が謝るようなことじゃないよ。むしろ、俺の方が何も知らなくて、申し訳なかったなって思って……」

榊はしょんぼりした顔になる。

「ううん、何もなかったんだから、よかったよ。今度から気をつければいいし」

初潮が始まる前でも避妊しなければ妊娠の危険はある、ということをつい最近までオレは知らなかった。初潮が始まって、それについていろいろ調べているときに初めて知ったのだ。それまでずっと避妊する必要がないと思っていたから、オレも榊も冷や汗をかいた。

「でもさ、生理、めんどくさいよな。憂鬱だ。なくなっちゃえばいいのに」

オレがため息をつくと榊は、

「今後ずっと生理が始まらなかったら俺が困る」

と、言う。

「何で?」

意味がよく分からなくて首を傾げた。どうして榊が困るんだろう。

ぼんやりしていると榊は眉をひそめて急にオレの上に正面から圧し掛かってきた。オレの脚を開いて、ちんちんの先端で入るべき場所を上下に何度も撫でる。

「んんっ……」

「ずっと一緒にいたいと思ってるからだよ」

榊が一気にずずっと入ってきた。オレは圧迫感に身を捩らせる。お腹の中が榊でいっぱいになる。

「十年でも二十年でも、一緒にいたいって、思ってるから……」

「はぁっ、うぅんっ……うんっ……」

最初から激しく突き上げられる。動きは乱暴なのに榊はオレがどうされるといいのか分かっていて、一番声が大きくなってしまうところを重点的に押し上げた。

「んんーっ、んぐぅっ、んはっ……あ゛っ、んんっ!」

思い切り喘ぎたいのに、声が出せなくて切ないよ。背中に当たる布団と上に乗っかってる榊の体でサンドイッチになって、オレはガツガツと体を揺さぶられ続ける。

「須藤っ、ハァッ、ハァッ、ずっと先のことだと思うけど、俺は――

「ふあぅぅんっ……」

きゅっと乳首をつままれると情けない声が出ちゃう。何だってこんなに刺激に弱いんだ。乳首も、クリトリスも。

榊は体をオレの方へ少し倒した。胸と胸をぴったりと合わせる。腰をがっちり掴んで、動きに合わせてオレの体を勝手に揺らす。そして、オレの髪に顔を埋めてぼそぼそと言った。

「孕ませたいって思ってるから」

「あ、あ……んん……」

そんなの反則だ。気持ち良くなってるところにこんなこと言われたら、ダメになっちゃうじゃん。さっきまで榊が途切れ途切れに言っていた意味が繋がって、体中一気にボッと火が点いたみたいになる。ずるいずるい、榊はずるい。

「やっ、だからダメだって! そこはっ……やだぁ」

クリトリスはダメ! 首を横にぶんぶん振っても聞いちゃくれない。何が何でも榊はオレの方を先にいかせたいらしくて、自分がいきそうになるとすぐここに手が伸びる。

「ひきょお……だよぉ……っ……」

思いきり開脚して、入れるところにはずっぽりちんちんが挿し込まれているから、その上のクリトリスはひとりでにむき出しの状態だ。ちんちんの出し入れのせいで泡立つように溢れだした愛液を、榊の親指がぬるっとすくい取ってクリトリスへ塗り込める。先っちょのツンと尖った所を慰めるように何度も何度も優しくこねる。

くにゅくにゅと円を描くように指の腹でクリトリス全体を潰して撫でて、それからちょっとオシッコの穴まで下りていって焦らして、そこから一気にきゅっと先端へ指を滑らせる。ぬるっと先端を親指ではじかれるようになるから、反射的にビクンって脚が震えた。脚が震えると膣は自分勝手に榊を締めつけてしまうみたいだ。榊はそれが気持ちよくてクリトリスばっか弄るのかも。

「んっ、ふぅっ……、ふっ……んんっ、あ、待っ……」

ああ、ほらもう弄られてるところが熱くなってきた。しびれて腰が浮くような感覚が止まらない。あ、腰浮いてんのかな。頭とそれから榊と繋がってるところがふわふわする。

「ア……、いくっ……いくから、だめ――

「ハァッ、よくしてやるからっ」

「ん゛ん゛ん゛ん゛ん゛ーーーーっ!」

体の中に充填していた熱が一瞬ではじけた。体が硬直して、自分じゃコントロールできない。それなのにビクビクと痙攣してて、ちょっと怖い。

辛うじて口を閉じるだけの理性はまだ残っていたけれど、喉の奥から叫んでしまったのでオレの声は動物の咆哮のようだ。榊が慌ててオレの口を強く押さえた。

榊も射精へ向かって、速く強く腰を打ちつける。汗ばんだ大きな手で口を封じられたまま、いきまくって力が入らないオレは体がくたっとして、まるで榊にめちゃくちゃに犯されているみたいだ。限界まで脚を広げられて、人形みたい。

でもこういうの、オレ好きかもしれない。榊にめちゃめちゃにいじめられたいな。いつも優しい榊が好きだけど、セックスのときはちょっと酷いことしてもいいよ。

「ぷは……あ、さかき、いきそうな顔してる……。へへ……」

榊の眉毛が情けなく下がってる。髪をくしゃくしゃにしてやる。

「う、るさい……」

ぐちゃぐちゃ、粘っこい音がいやらしい。

「須藤……」

「いっちゃっていいよ。ね」

オレが言うと、榊は目をうるうるさせながらじっとこっちを見つめた後、ギュッと瞼を閉じた。

――っ!!」

榊がオレの中でピクンピクンって脈打ちながら精液を吐き出した。榊の指が中でごにょごにょ動く時とも違うし、意思をもって榊にちんちん出し入れされている時とも違う。射精の時だけ違う生き物みたい。

オレの方だって、いくときだけは自分の意思を離れてピクピクする。この体はホントに不思議だ。

「ハァ……、ハァ……、痛い……。膝、畳で擦り剥いた……」

榊の膝小僧は擦れて赤くなっていた、ちょっと血が滲んでいる。

「夢中で動き過ぎ」

オレが笑うと、榊はまた眉毛を下げて困ったように肩をすくめた。

「気持ち良かった?」

まだぜいぜいいっている榊にオレがそう尋ねると、榊は少し呆れたような顔をしてオレの頭を抱いた。

「気持ち良くないとこんだけ出ないでしょうが」

オレの中からずるっと抜くと、コンドームの内側に精液が溜まっていた。

「これは多いの? 少ないの?」

そう聞くと、ぼそっと「多い」と答える。

今まではオレの中に出していたから、比較しているのは一人でするときのやつか。そう考えると顔がにやけてしまった。好きな人に気持ちいいと思わせることのできる体を持っているっていいな。

終わった後ぐったりな榊は放って置いて、オレがてきぱきと片付ける。

「早く服着ちゃいなよ」

「んー」

榊はまだ下半身出しっぱなしでごろごろしている。

オレは洗面所へ行って、二人の汗が染み込んだタオルケットを洗濯機の中へ投げ入れた。後ろから榊はのろのろとやってきて、虚脱状態のオレ達はごうんごうんと音を立てながら巻く渦を並んでぼんやり眺めている。

オレはずっと榊と一緒にいられるだろうか。ちらっと横顔を見上げる。

背は高い。肌の色は白い。髪はちょっと癖があるけど、短髪だから分かりにくい。唇は薄くていつも乾燥している。人の唇は色々塗って弄りまくるくせに、自分のことはぞんざいだ。目は奥二重だけど、下がり眉のせいで人相は悪くない。

好きだ。愛着が湧いて離れられない。できることならいつも手元に置いて撫でたい、愛でたい。

「榊、オレも榊とずっと一緒にいられたらいいって思ってるよ」

シャツの裾を引っ張ってそう言うと、榊は目を糸みたいに細くして笑った。

「ん、ありがとう」

榊の手がオレの髪を撫でる。そして、

「あー、あのさ……、早々に妊娠させたいわけじゃないから……安心して?」

こう続けるのでオレはぷっと噴き出してしまった。

「分かってるよー、まだまだずっと先の話なんでしょ?」

「うん、でもまあ、俺なりに結構真面目に考えてはいるから」

少し低い声で榊はゆっくりと喋る。オレは頷いた。でも、あまりに真っ直ぐなことを言うので少しだけ気おくれしてしまった。簡単に「ずっと」なんて言っちゃいけなかったかも、とオレはさっきの自分の発言を反省した。オレはまだ榊みたいにきっぱりとは言えない。

オレ達、高校は多分別々になるだろう。榊は勉強できるけど、オレはばかだし。

家が近いのはまだ救いだけど、今みたいに一日中傍にはいられなくなる。今までずっと一緒だったからそんな自分たちを全然想像できない。

そして、榊は女子にキャーキャー言われるタイプじゃ全然ないけど、普通に好かれる奴だ。かわいい子は周りにたくさんいる。オレから気持ちが離れることもあるかもしれない。それは、ちょっと想像できる。考えたくないけど。

ずっと、と思ってはいても、どこかにオレ達のおわりはあるのだろう。榊とオレは男と女だから、付き合う前までの友達同士べったりな関係のままではきっと大人になれないだろうし、今の恋人っていう関係もどこまで続くか分からない。人と人が出会ったらその時点でもう別れという方向へ向かって矢印は伸び始めるんだ。オレ達はその上を歩くしかない。自分じゃどうにもならないことだってきっとあるだろう。

冷めていると言われそうだが、それがオレの価値観だった。でも、どこかに限りがあると思うからこそ今、榊のことを愛おしく思うし、もっと大事にしたい。

オレは榊とずっと一緒にいたいって思うほど、今、榊のことが大好きだよ。うん、これなら胸を張って言える。

「沈思黙考」

「え?」

「って顔してる」

「何それ?」

急に言われても分からない。榊は洗濯機の蓋をパタンと閉めると、オレの前髪をくしゃっと触った。

「あんまり難しい顔ばっかりしてんなよ、ってこと」

オレは自分の眉間をゴシゴシと擦った。皺になる、皺に。

「榊はあんまり難しい本ばっかり読んでんなよー」

ふざけて言い返すと、

「え、何で?」

と聞くので、

「榊はたまに難しいこと言うもん」

オレは答える。

「チンシモッコーだよ」

榊はニヤニヤしながらそうやってオレをからかうので癪だ。眉間に皺は刻まれても、脳みその皺は増えないのか知らん。オレがもっと勉強できるようになれば同じ高校行けるのかな。今度は表情に出さないように、オレはこっそり胸を痛めるのだ。

しばらくはお互い部活で忙しかった。榊は体育祭のアナウンス原稿を書くためにパソコン室に籠りっぱなしで、オレは陸上の大会が近かったので朝夕は練習と、帰る時間を合わせることもできない状態だ。

体育祭を二日後に控えた放課後、グラウンドの隅で練習を始めようと準備していると、榊が機材を抱えて後輩の女の子と一緒にやって来た。名札の色を見ると一年生みたいだ。

「須藤、お疲れ」

「あ、榊。どうしたの?」

放課後のグラウンドは運動部が全面使っていて、オレ達のいる面はサッカー部が土埃を上げている。制服姿がこの辺りをうろうろしているとやけに浮いて見えた。

「陸上部の部長って誰かな?」

と、榊が尋ねる。

「二組の山本だけど、まだ来てないよ。何か用事?」

「ちょっと動画撮る練習させてもらえればと思って。体育祭の練習に走ってる人を撮りたいんだ。そっちの練習の邪魔はしないから」

傍らに立っている後輩の子はちょこんと会釈した。高い位置で括っているポニーテールが揺れる。オレも愛想笑いを返す。

「一応、カメラテストするよって言ってもらえればあとは勝手に撮っていいと思うよ」

「そう? 悪いな」

榊は三脚を下ろして、トラックの白線からちょっと離れた位置にそれを広げた。

「この辺使っていい?」

そう叫ぶので、

「いいよー」

と答える。オレは屈伸をして、スタート位置に立った。

「オレ、何回か走るから、撮るなら好きに撮っていいよー」

榊が了解、と手を上げる。カメラを三脚に付けて、後輩の子へ説明しながら何やらちまちまと操作しているみたいだ。二人でカメラを覗き込んでいる。

トラックはサッカー部の使っているコートの周りを使う。次の大会で800を走るから、一周が200メートルのトラックを4周。学校のトラックは小さいから速度を出すのが難しい。

サッカーのゴール近くを通る時はちょっと怖い。頭上をサッカーボールが掠めていく。反射神経には自信がある方だけど、それでも800なんて短い距離を走っている最中、他のことに注意が削がれるのは嫌だ。

走る。400メートルを過ぎるあたりになると、オレの体は空気の抵抗を一気に感じるようになる。空気は泥のように肌をべったり触って、オレの肺へゆっくりと入り込んでくるようだ。集中すると、必要のない情報は視界から消えていく。周りの風景が砂の色に滲んできてトラックの白線だけになると、数秒先にオレの足を着ける場所が点々と浮き上がって見えてくる。ポジションを見極める瞬間だ。もっと、もっと素早く前に出ろ。暴力的に走るというのは、一頭の獰猛な獣になったような気持ちだ。噛みつくようにオレは走る。セックスする時の男の感覚って、もしかするとこんな感じかもしれない、なんてことも考える。

他校の速い奴らはポジション取りやペース配分なんかの戦略を頭に巡らせながら走るらしいけれど、オレは走るとき感覚だけになるのだった。こんな走り方で、今後伸ばしていけるのかどうかは自分にも全く分からない。

ゴールラインを越えて数メートル流す。風景がいつも見ているものに戻ってきてからやっと、そういえば走ってるのを撮られていたんだった、榊もすぐ傍に居るんだった、とついさっきのやり取りを思い出した。それほど走っているときは思考が飛んでいるらしい。さすがにちょっと危ない人みたいだな。

最初はウォーミングアップのつもりだったけれど、タイムもとっていないのに、結局本気で走ってしまった。呼吸を整えながら、左手首に指を当てて脈拍を取る。これがゆっくりになってきたらもう一回走ろう。

それからオレは何度も800を繰り返し走って、榊と後輩の子はそれをカメラに収めていた。楽しそうにしているのがちょっと羨ましい。陸上って走っているときはどうしようもなく一人だから、放送部はいいな、仲良さそうだな、とこんなとき思ってしまう。

しばらくすると陸上部員が次々と練習に集まってくる。オレも一旦走るのを中断させた。榊に声を掛けようと小走りで近寄っていくと、榊達はうちの顧問の先生と何か話をしているようだ。

それからすぐに、ぼんやり突っ立っているオレを一度も振り返らず、榊は素早く機材を片付けて後輩の子と一緒に帰ってしまった。無視されたみたいで、ちょっと傷付いた。忙しいのは知っているけど、手くらい振ってくれてもよかったのに、とオレはいじけた。

翌日の放課後、オレは陸上部の練習を早めに切り上げてパソコン室へ行った。久しぶりに買い食いしながら帰ろうよ、と榊を誘おうと思う。

榊が部活を終えるまで待つつもりで訪ねてみると、パソコン室には二年生で副部長だという女の子がいて、「部長は放送室にいますよ」と言う。その子は愛想というか、ニヤニヤというか、ジロジロというか、オレに不躾な視線を投げる。きっとオレが榊の彼女だって分かったんだろうな。これはなかなか恥ずかしいものだ。

オレは一階にある放送室へ向かった。『ON AIR』ってドアの上にランプが点いているけど、声を掛けてもいいんだろうか。躊躇しているとちょうどドアが開いて、

「入りなよ」

と榊が中へ入れてくれた。

中は二間に仕切られている。校内放送をするための狭い部屋と、大きなガラス窓を挟んで広い部屋。狭い方の部屋ではさっきまで榊が作業していたのか、机の上にヘッドホンとカセットテープと沢山のCDがごちゃごちゃに置いてある。

「原稿は終わったの?」

「うん。あとはBGMを適当に決めて終わり」

「ふーん。あ、帰りにスーパー寄ってもいい? 買い物しなきゃ冷蔵庫空っぽなんだけど」

「まあ、いいけど」

「明日の体育祭の弁当は榊の分もオレが作ってあげるから」

「本当?」

食い意地張ってるなあ、榊。急に目を輝かせちゃって、しょうがない奴だ。

「じゃ、邪魔しないでおとなしくしてるから、終わるまで待っててもいい?」

「いいよ」

そう答えてはくれたものの、何もしないで待っているのはなかなか退屈だった。かといって、榊は早く終わらせようとしてくれているので、話し相手になってもらうのもためらわれる。

「昨日、榊達が撮ってくれたやつ見てもいい? 自分のフォームがどんなのか見たい」

一人でおとなしくビデオを見るくらいなら邪魔にもならないだろう。

「ん、いいよ。テープはそこの一番下の引き出しに入れてある。ラベルにでっかく『テスト』って書いてあるやつな」

「これ?」

「それ。何回も上書きしたやつだから、画質酷いと思うけど」

「全然いいよー、借りるね」

「んー。デッキはあっちのやつ使って」

榊が広い方の部屋をペンで指すので、オレは素直にその八ミリテープを持って行った。

広い部屋のアクリル窓から榊を見ると、ヘッドホンをして俯いて、プリントの束へ何か書いているのが分かる。たまに顔を上げてプレーヤーをいじって、また俯く。

オレはテレビの電源を入れて、ビデオデッキにテープを差し込んだ。何年前のやつかも分からないような、古い映像がしばらく流れてから、画面が切り替わって昨日のオレが映った。画面のオレがスタートを切る。

後輩の子と榊が喋る声をマイクが拾っていた。ぼそぼそと喋っていて聞き取りづらい。音量を上げる。

「すごいですね」

「ああ、あいつ県で一番速いからね」

「え、そうなんですか? すごい!」

「カッコいいでしょ?」

「はい」

よし、もっと褒めろ、とオレは有頂天になった。「かわいい」と言われるより「カッコいい」の方が嬉しい。

それからしばらくカメラマンの二人は黙ったり、操作の説明をしたり、オレがどアップになったり遠くなったりした。笑った。フォームなんて、結局どうでもよかった。見たところで、自分じゃどうしたらいいのかなんて分かりはしないのだった。

「部長、あの……」

やたらボソボソと喋るので、気になって音量を最大まで上げた。喋り方からして、この後輩の子は気が小さそうだ。

「んー?」

榊の声は大きい。風の音がごうごううるさい。

「好きです」

「ん、何が?」

「わたし、部長のこと好きです」

「え……?」

オレの姿がカメラのフレームから外れた。画面はサッカーゴールを映したままだ。ゴールネットが揺れている。オレは膝を抱えたまま、腕だけ伸ばしてリモコンの巻き戻しボタンを押した。もう一度、オレが600メートルを過ぎるあたりから。

「わたし、部長のこと好きです」

「え……? ああ、そっか」

榊のため息をつく音が聞こえる。しばらくして、

「久我山さん、返事はちょっと待ってもらえるかな」

はっきりと榊はそう言った。もう一度巻き戻す。

隣の部屋からガタンと大きな音が聞こえた。パイプ椅子の倒れる音だろうか。振り向く気にもなれない。

榊は部屋のドアをばーんと派手に開けて、大股でこっちにやって来た。リモコンを掴もうとして、床に落っことして、拾い上げてビデオが停止された。慌てているのが丸分かりだった。

「須藤……聴いた?」

「二回聴いた」

「あのさ、これは何て言うか――

「よかったね」

「おい」

「告白されて浮かれてんじゃねえよ……」

「浮かれてなんかないって。これは……ごめん。すっかり忘れてたんだ。テープにこれが入ってるの忘れてて、お前に渡して――

「そんなことじゃない!」

思わずオレは声を荒げた。こんなに癇癪を起こすなんてバカみたいだけど止められなかった。

どうしてオレに見られたことに慌てるんだ。オレに見せなければそれで良かったってことかよ。しかも、うっかりオレにテープを見せてしまったことに「ごめん」だなんて、バカにすんな。と悔しくてたまらなかった。

後輩の子からの告白をどうして保留にするのか。まさかオレに黙ってこっそり付き合おうとか考えてるんじゃないのか。頭に血が昇ってどうにも感情の行き場がなかった。

「帰る」

「おい、待てって」

「触るなー!」

榊がオレの腕を掴む力が強くてイライラする。男だからって力で何でもどうにかなると思ってんじゃねえよ。オレが女だから、簡単にねじ伏せられるとでも思ってんのか。

「放せよ!」

「落ちつけよ、話聞けって」

「うるさい!」

自分だけ冷静なふりして「落ち着け」とか言う奴大嫌い。馬鹿とは同じ土俵で喧嘩しませんって言われてるみたいでムカツク。

右腕を振り払って、その手で榊の頬を思いきり張った。ばちんと派手な音が響いた。

「痛っ……」

怯んだ隙に榊の体を思いきり押して、オレは放送室のドアまで走った。上靴を引っ掛けながら重い鉄のドアを勢いよく開けると、さっきの副部長の子がちょうど廊下に立っていて、「うわっ」と叫んで飛び退いた。

「おい須藤!」

逃げる。榊なんかがオレに追いつけるもんか。職員室の前で加速していくと、ドアの傍にいた学年主任がオレに向かって何か怒鳴っていた。

階段は一段飛ばし。もっと足が長ければ二段飛ばしで行けるのに。男はいいよな、榊なんて無駄に高身長持て余してやがるんだ。階段で追いつかれたら癪だ。屋上までオレは全速力で駆け上がった。

屋上には誰も居ない。吹奏楽部が練習でもしているかと思ったのに。もう皆引き上げちゃったのかもしれない。

貯水槽に上がる梯子をよじ登って、てっぺんに座った。この場所がこの学校で一番高いところだ。太陽は沈んでしまった。見下ろすと路面電車が火花を散らして走っている。繁華街からオフィス街を通って真っすぐ伸びている線路は、オレ達の住んでいる商店街の手前でぐぐっと東へ曲がる。そのうち川を渡って終点の港へ行く。

「下校時刻になりました。まだ、教室や校庭に残っている人は早く下校しましょう――

うるさい、榊がオレに指図すんな。

遅くまで残って陸上部の練習をしていると、毎日この放送が聞こえる。榊の声で録音してある下校放送だ。ああ、今は声も聞きたくないのに。

じっと耳を塞いでいると、放送は止んだ。ほっとして手を耳から離すと同時に、ガチャンと入口のドアが開く錆びた音がした。ぺたぺたとこっちへ足音が近づいてくる。

「須藤、降りてきて」

榊だ。

「須藤」

絶対返事なんかしてやらない。でも何でオレがここにいるって分かるんだろう。下からは見えないはずだ。オレは身動き一つ取らず、気配を殺していた。

「分かった。俺がそっち行く」

ヒタ、と足音がこっちへ向いた。

「やだっ!」

オレは思わず叫んだ。

「降りてこいよ」

「嫌だ」

貯水槽から身を乗り出して下を見ると、榊が梯子に足を掛けていた。

「来るな! 上ってきたら落っことすから!」

「じゃあ、そのまま俺の話聞いて」

「嫌」

「昨日さ――

「あーあー! 聞こえないー!」

オレはさっきよりも強く手のひらで耳を押さえた。言い訳なんて絶対に聞くもんか。

しばらくそうしていると、榊は口をつぐんだ。オレも一人だけわあわあ言ってるのはバカっぽいので黙った。

「須藤、ごめんな……」

榊はぼそっとそれだけ言うと、梯子から飛び降りた。それからオレに背中を向けて、入口まで歩いていく。榊の姿が見えなくなってからも、屋上のドアは長いことギィギィと古びた音を鳴らしていた。

家に帰るまでに榊に捕まったら最悪、と思いつつも早く帰って夕飯の支度をしなくちゃいけない。その前に買い物も済ませなければ。

オレはピンクパンサーみたいに壁に貼り付きながら、下駄箱まで移動した。榊の靴があるかどうか確認しようと顔を覗かせる。

「うわぁっ!」

「わっ」

急に現れた人影に驚いて、腰を抜かしそうになる。優子だ。肩に鞄をかけて、今から帰るところらしい。

「何だ優子か……びっくりしたぁ……」

「純、どうしたの?」

質問は適当にごまかして、ちらりと榊の靴箱を見ると靴はない。もう帰っているみたいで取りあえず安心した。

「お尻盛大に真っ白にしてるね。どこにいたの?」

「屋上」

「もう、どうやったらこんな真っ白になるんだー」

笑いながら優子はオレのお尻をぱんぱんとはたいてくれた。

「優子、お母さんみたい」

「えー、ババくさいからねー。へへっ」

電停まで優子と帰り道を歩いた。榊のことについては何も言わなかった。

家の机の上にはビューラーを置いたままにしてある。前に榊がくれたやつだ。化粧して学校に行くと怒られるけど、睫毛くるんはオッケーでしょ、ということらしい。

うまく使えない。榊にやってもらうと綺麗にくるんと上を向くのに、自分でやると睫毛は瞼にビタッと貼り付いたように逆立って、一部あべこべに曲がったりする。コツがうまくつかめない。

オレ、まつ毛が長すぎてラクダみたい。

「きもちわる」

榊はこんなオレの何が良くて付き合っているんだろう。全然女らしくなくて気も強いし、可愛げもないだろうに。

榊は男女問わず誰とでもそれなりにうまくやる。誰にでも優しい。人との距離の取り方は自分なりのルールに沿っていながらも柔軟。頭も切れるし、面倒見だっていい。女子に好かれるのも分かる。特に、あの後輩の子みたいなか弱い感じの女子は榊を頼りたくなるんだろう。榊だって可愛く頼ってくれる女の子の方が一緒にいて気分がいいと思う。昨日だってすごく楽しそうにしてたし。

オレは榊と違ってかなり自己中心的だ。特に榊とは付き合いの長さのせいか、つい遠慮がなくなる。分かってるなら改めればいいんだろうけど、具体的にどうしたらいいのか分からない。今更しおらしいふりしたっておかしく思われるだけだろう。一応弁当作ったり、甲斐甲斐しくしてることはしてるんだけど。

「あ、弁当……」

そういえば明日の弁当、榊のも作るって約束したんだった。言ったものはしょうがないので作ってやることにする。オレのせいで食いっぱぐれさせるのは不本意だ。

台所に立って、野菜を切る。暴力的に。昨日の後輩の子と榊が楽しそうに話していた場面を思い出す。すごく嫌な気分だ。めちゃくちゃ嫉妬する。研いだばかりの包丁はよく切れます。

榊がもしあの子に乗り換えてオレが捨てられることになっても泣かないようにしよう。一人でも大丈夫なオレになろう。それから、今までオレを好きでいてくれただろう事実は何にも否定させないようにしよう。

そして、今日のオレの態度はさすがに子供っぽかったよな、と反省しながらオレはベッドに潜り込むのだった。

体育祭の日の朝は遅刻ギリギリに滑り込んだ。準備をするために、生徒会や放送部はホームルームをパスして校庭で作業している。その隙に榊の弁当は机の中へ放り込んでおいた。

競技が始まると、榊のアナウンスや実況をする声が時々聞こえるので、意味もなくそわそわする。

オレの出る騎馬戦も榊がカメラを回していて、妙な気持ちになった。別にオレだけが録られてるわけじゃないって分かってはいるけど。

午前中最後の競技は男子の棒上旗奪いだ。榊は予想通り今年も守備配置で、怪我をしなければいいけどと心配になる。

去年は競技中に思いきり足を踏まれたか何かで、捻挫していた。オレが応急処置をしたけど、痛みがなかなか引かないし腫れるしで大変だった。

でも捻挫の痛みに耐えながら、放送席で汗びっしょりになってまでその後の全競技をアナウンスしてたのはカッコよかったな。すごく痛そうなのに声はいつもの軽快な感じですごかった。

それに比べて、今日は朝からどこか上の空って感じのキレのない喋り方だ。榊が調子の悪いときの声色はすぐに分かる。今年は全然ダメ。オレのせいなのか、それともあの告白が尾を引いて色ボケなのかは分からない。

棒上旗奪いの競技が終わったようだ。榊はクラスのテントへ戻ってくるかと思ったら、そのまま本部席へ行ってしまった。オレはずっと榊の背中を見ている。

「ああっ!」

オレははっとして慌てて自分の口を押さえた。

「何なのよ、いきなり変な声出してー」

と、隣に座っているヤスが文句を言う。

「あら、可愛いー」

オレの視線の先を辿って、ヤスが感心したように声を上げた。榊は告白してきたあの後輩の子と一緒にいる。膝を擦りむいたのか、傷の処置を女の子にしてもらっているようだ。榊は嬉しそう、というかデレデレしている。そんな擦り傷くらい自分で手当てしろ、とオレは内心で毒づいた。

榊が教室へ帰ってくる前にと、弁当の包みを引っ掴んで階段を上がる。体育祭の昼休憩に一人寂しく屋上で弁当食べてるのはオレくらいだ。日陰に腰掛けて周りを見ると、団体さんばかり。

オレは榊にふられる覚悟が決まらない。あいつから逃げてばかりだ。近いうちに話をしなきゃいけないって分かってはいるんだけれど、昨日の今日ではまだ冷静になれない。榊を前にしたら、また感情が爆発するかもしれないし、でもそんなの格好悪くて嫌だ。

浮かない気持ちでちびちび食っていると、オレを呼ぶ声がしたので顔を上げる。優子がいた。

「純は屋上好きだねえ」

「馬鹿と煙は高いところが」

「もう、自分のこと馬鹿とか言っちゃダメだよ」

「優子、どうしたの?」

「一緒に食べよう」

優子はお重くらいの大きさの包みを目の前に差し出した。

「何これ、弁当?」

「うん。うちのハハが『いつもお世話になってます〜』って、純に。今日は体育祭だからってお弁当張り切ったらしい」

優子は「ハラ減ったよねー」と言いながら包みをほどいている。たまに優子の弁当をオレが作って行くから、そのお礼ということらしい。素直にありがたかった。

「今日のおだんご頭可愛いね」

いつもは肩に下している優子のさらさらストレートの長い髪が、今日は頭のてっぺんでまとめられている。

「今朝、もっちーにやってもらったんだ」

「もっちー、人の頭のときは真っ直ぐやるんだね」

「そうそう、もっちーのおだんごはいつもよじれてるのにね」

「今日も盛大によじれてたよ」

「前に、『先生、曲がってるよ』って指摘したら『わざとだよ』って言われた」

「あははは、もっちーの美的センスが分からん」

いくらかリラックスした気持ちで優子とケラケラ笑っていると、また屋上へ誰かがやって来た。

「やばっ」

榊だった。オレは貯水槽の陰に慌てて移動した。優子はそんなオレに慌てて、

「え、私も隠れたほうがいい?」

と尋ねるので、こっちへ引っ張った。

「榊君、純のこと探してるんじゃない?」

優子が言う。

「声、掛けてみたら?」

オレはぶんぶんと首を振った。そのままじっとしてチラチラ榊が立っている方を伺う。しばらくすると、もう一人屋上へ上がってくる人影があった。その子へ向かって榊は手を挙げて、それから二人で寄り添って何か話をしている。遠くて声は聞こえない。オレは落胆した。泣きそう。

「純、いいの?」

心配そうに優子はオレの顔を覗き込んだ。頷くと、

「まあ、事情が飲み込めないから何も言わないことにする」

と、水筒からお茶を注ぎながら優子は呟いた。優子はいつも、俺と榊のことを根掘り葉掘り聞いたりはしない。オレが優子と長いこと仲良くしていられるのは、優子のこういう性格のおかげなのだと思う。

休憩時間の終わるギリギリまでオレ達は屋上にいた。榊の声がスピーカーから聞こえたら、下りることにしよう。出くわしたくないし。

「私、こないだ振られちゃったんだよね」

「前に片思いしてるって言ってた人? 年上の」

「そうそう」

優子の思いがけないコイバナに食いつく。オレ達は他の女子がよくきゃあきゃあ言いながら盛り上がっているようなこの手の話をあまりしない。優子は大人っぽくて、同級生の男子に「カッコいい〜」なんて騒ぐようなタイプでもなかったので。

「告白したんだ?」

「うん、私にしてはかなりの進歩だよ。まあ振られたけど」

男の人が苦手、という優子の感覚はオレみたいな奴には分からないけれど、最近優子が頑張っているのは知っている。

オレが男子と弁当を食べたり遊んだりしている場に誘うと、嫌な顔一つせずに混じってくれる。まだちょっとオドオドする態度は抜けないけれど、冗談を言ったり普通に喋れるようにはなったみたいだった。特にヤスとは気が合うみたいだ。おかまっぽいヤスとお母さん気質の優子の話を隣で聞いていると漫才みたいで、オレはいつも噴き出す。

「やっぱり私は子供だなって思い知らされた。相手の人がね、何ていうか優しいんだよね。私のことを振った後でも気まずくならないようになのか、気を遣ってくれてるのか、私が告白する前よりもっと優しくなった。でも私の方は前と同じようになんてすぐにはできないから妙な態度取っちゃって、自分の狭量に凹む」

「好きだったんだから、すぐに前と同じには戻れないよ。優子が子供っぽいんじゃないと思うよ。オレだったら、振られた時点で塞ぎ込んじゃうかも」

「うん、私も塞ぎ込んじゃってるよ。そりゃあもう盛大に」

優子はそう言って明るく笑った。オレ達の前でそんな顔を見せない優子は大人だ。オレは逆に子供っぽい。うわ、凹む。

「『自分のことを好ましく思ってくれている人にはできる限り真摯になりたい』だとさー。言うことが大人過ぎて私なんか縮み上がったね」

「かっこいいね。真面目な人なんだ、その人」

「真面目で紳士だよ。紳士が真摯になりたいとか言っちゃって、ダジャレかっつの」

「笑えないよ」

「笑えよー」

優子がそう言って肩をぱしぱし叩くので可笑しかった。

「真摯かぁ……」

オレは榊のことを思った。榊は告白された相手にはどんなふうに接するんだろう。"真摯"になるのかな。榊が人と接する時のバランス感覚を考えると、優しく接するのは間違いないだろうな、さっきのを見ても。

真摯になるっていうのは相手との距離を測りなおすということだろうか。恋愛絡みの色々は、くっ付き過ぎても、離れすぎても相手を傷付ける。

思えば小学生の頃から、オレは考えなしに榊に遠慮なくべったりしていた。他人との距離感にオレはあまり頓着していなかったのだ。榊がオレのことを好きにならなければ、とっくにうっとうしがられていたかもしれない。それともあいつなりの器用さで、上手くあしらわれて付かず離れず普通の友達をやっていただろうか。

榊に初めて好きだと言われたときは怯んだ。男と女の距離の取り方ってやつに混乱して、どこに立っていればいいのかも分からず、オレは一度逃げたのだ。

それからもう一度よく考えてみて、オレも好きだって気付いたら、あとはもう榊の前で何もかもむき出しになった。いつもむき出しでいるっていうのは距離感に戸惑うことはない代わりに傷付くときは傷付きまくる。今がまさにそれだ。

オレはオレのやり方で真摯になろう。今回ばかりは榊の方から追いかけてきてくれないかもしれないのだ。気持ちはもうあの子に向いているかもしれないから。榊の気持ちがどこに向いているかを確認することで、オレは距離を測る。榊がオレに真摯になってくれなかったら、それならそれで終わりだ。

「優子、お弁当ごちそうさま。美味しかった。そろそろ下りよう」

屋上にはもうほとんど人がいなくて、グラウンドは騒がしくなってきていた。立ち上がる。

「午後は対抗リレーがあるね、女子の次が男子だったっけ」

「うん、オレ頑張るね」

優子はオレの背中をぽんと叩いて言う。

「おう、配点高いから頑張って逆転させてくれ。純とヤス君の二人もアンカーが出るって、うちのクラスは優秀だなー」

いくら嫉妬に狂っていようが、オレは速いのだった。この脚は何にも惑わされたりしない。

>>後編〔一〕へ続く

初出:Aug19, 2010 エロパロ板 【処女】ボーイッシュ六人目【貧乳】

作品一覧へ

>
inserted by FC2 system